午前6時ぴったりに、電話が元気よく鳴った。
俺はまだ当然ベッドの中にいて、さっきまで見ていたハズの心地良い夢が波みたいに引いていくのをどうすることもできずに目をつぶって小さく唸る。諦めなくちゃ。それが何だったか思い出せないものほど、名残惜しく俺の髪を引っ張るものだけど。ゆっくり片手を伸ばして、手探りでサイドテーブルの受話器を掴んだら、ようやく音は止んだ。
「もしもし?」
目を片方ずつ開きながら、朝日が何故こんなに眩しいのか呆けた頭で考える。かすれた声で受話器に耳をすませば、夢の続きかと錯覚するような、柔らかい、あの子の声が聞こえた。
『おはようDaddy、寝てたか?』
「…いいや、いま目が覚めたとこだよ」
おはようエマちゃん。途端に押し寄せる安堵と幸福感。答える声は自然と柔らかくなる。ああ、そうだった。彼女は朝が早いんだっけ。受話器を耳に押し当てたまま、俺は考える。しっかりしない視界のはじで、カーテンが揺れる。寝室の窓はそんなに大きくないけれど、朝の風に揺れるカーテンの隙間から痛いぐらいの光が差し込んでいた。朝日が眩しいのはまだ慣れなかったが、はっきりしない頭に彼女の声が染み込んでいくのは心地よかった。俺が何も言わないのはまだ頭が冴切っていないからだということに気づかない電話の相手は、可愛らしくもモゴモゴ口ごもりながら言った。
『ちょっと早いかなって思って6時まで我慢したんだけど』
「いいタイミングだったよ。君の声が聞けて嬉しい」
さり気なく伝えた言葉に、電話の向こうがまた静寂になる。一瞬不思議に思った俺だったが、ああそうか、あの子は照れ屋なんだった。いまごろ受話器を持ったまま顔を赤くしているのかも知れないだなんてゆるゆる思ってしまうのだから、俺はまだ夢からちゃんと目覚めていないらしい。
「…本当のことを言うよ。実は君の電話で起きた」
正確には、君の声が夢だと思った、だ。
じゃなきゃこんな風にのんびり君の声を聞きながら、ベッドにいつまでも座ってられない。
『…いつもより声が可愛いかったのは寝起きだったから?』
可愛い、か。思いもよらない言葉に吹き出して、笑った。君の声のほうが可愛いよ、言おうとしたセリフは笑い声に遮られて言葉にならない。エマちゃんは面白いなあ、いまさらながら彼女のその愛らしい言動や声に癒やされて、会ってもいないのにこんなに幸せな気分になれることに我ながら驚いている。クスクスと笑いながらごめん、と一言付け加えるように謝って、それから息を吐いて、ベッドから降りる。カーテンを開けると、太陽から降り注ぐ朝日が薄暗い部屋を照らした。
「今日はいい天気だね」
まるで隣に彼女が居るみたいに、俺はそう言った。受話器の向こうからは何も聞こえなかったけれど、それでも俺には彼女が窓の外を確認して、小さな手でカーテンを開けて、それから俺に頷いたのが分かった。小さな娘たちがそうしたように、きっと彼女もそうするハズだと思った。曖昧な妄想。それが幻覚なのか、思い出なのか、それすらもう俺には分かってはいないけど。
「嘘をついたお詫びにコーヒーを淹れていくよ」
窓に背を向けて、キッチンへ向かう。固定電話をあちこち持ち運ぶなんて馬鹿げてると鯉壱は言うけれど、俺は受話器を持った右手とは反対の腕で電話を抱えて、キッチンの棚を開けた。お目当ての物は、すぐ見つかった。受話器を肩に挟んで、俺は両手を伸ばした。
「エマちゃん、ドーナツは好きかい?」
『好き』
ふと、指先が止まった。
真っ直ぐなその響き。俺の乾いた心を潤すような、君の声。
長い間一人で生きてきて、その間に抜け落ちた何かを、偶然見つけた気分だった。
そうだ、あの子たちもそうだった。
あの子たちも、朝にはいつも、
でもそれを、好きなモノを食べるあの子たちを見つめる俺が、俺には曖昧で、思い出せない
きちんとこの子に向き合えるのか?
ふと過ぎる注射の針のような痛みに、俺は目を細めた。
俺はきちんとこの子と向き合っているのか?
あの子たちではなく、この子と?
『Daddy?』
鼓膜を愛しい彼女が襲う。
俺を呼ぶその声を、俺はもうすでに恐怖した。
何も知らない小さな彼女と、知りたくないことまで思い知らされた俺。
「よかった。一緒に食べよう」
そう笑った俺の声が少しだけ震えたのを、電話の向こうの彼女は気づいただろうか。
これが、曖昧な俺からの精一杯の愛情表現であることを彼女は分かっていないけど
だがそれでいい、それを知ったらきっと彼女は、また少し、おとなになってしまうから