あれからとそれからとこれから

 僕は、心穏やかな日々を過ごすために水槽の底へやって来た。ひとりで水の中を漂ったり、おひさまを浴びたり、時間を気にせずのんびりするのが好きだった。だけど自分勝手に好きなことをしていたはずなのに、次第にそれに飽きてきた。なぜかわからないけど、そうしているのが不安になったんだ。一人で過ごす時間のない毎日。怒ったり悲しんだりすることは何もないはずなのに、ただ漠然と不安で、悲しかった。僕が一人ぼっちで庭に転がって、目を閉じて、目に見えない悲しみの原因を考えていた時、目を開けたら、そこにハチコが居た。

 ある日、僕は怒っていた。水槽の底にいるからって、毎日穏やかなわけじゃない。ここにはもう僕だけじゃない。緑露ちゃんも十色ちゃんも居て、ハチコも来る。怒ったり悲しんだりすることも貴重な人生を楽しむ秘訣だと緑露ちゃんが教えてくれた。だから僕は怒ったりすることはいいことだと思い直すことにした。怒ってる時は怒ってるって言って、泣きたいときには大声で泣いてみたりする。実行するのが難しい時もあるけど、たいていそれは幸せになるために必要。ハッピーになるには代償がいる。それが涙とか、憤りとかなんだと思う。とにかく僕はクッキー缶を持ってウロウロして、キッチンから出てきた。マダラカガの鯉壱はむしゃくしゃしています。ここにクッキーがあったら、全部食べてる。もぐもぐなんてかわいいもんじゃない、バリバリ食べてる。だけど、それができない。それで、だから僕は、とにかく、ますますイライラした。

「ねぇハチコ聞いて」

 クッキー缶を抱えた僕は、ソファーに転がっていたハチコに言った。彼は黙って目を閉じてクッションを顔に乗せて、手はお腹の上で組んで、全く動かなかった。寝てるのか起きてるのかはわからない。だけど僕の呼びかけに彼は答えず、指先ひとつ動かそうとしなかった。固まってる。今日一日は動かないぜと固い決意を胸に秘めているのが分かるぐらいに。

「ハチコったら」

 僕はとても怒っていたので、ソファーの上でクッションとともに固まって動かないハチコに狙いを定めると、クッキー缶を置いて彼のお腹の上によじ登った。ハチコがソファーで寝てるから仕方ないよね? 僕はハチコの上に座るしかない。彼はうっ、とか何とか苦しそうに呻いたけど、それでも僕が彼のお腹の上に座ってもしぶとく抵抗を続けていた。頑張ってる。僕が顔の上のクッションをどけると、ハチコは漸く眩しそうに顔を歪め、「何だよ」と眠そうな声で言った。

「鯉壱ちゃん重いよ」
「僕怒ってるんだ」

 僕はハチコから奪ったクッションにパンチした。ふかふかでヤワなやつだな。おまえ、皆を気持ちよくさせて、喜ばせるだけの人生でいいのか。本当は僕、このクッションが大好きだけど。ハチコは声にならない声で一言文句を言ったきり、また勝手に眠りそうだったので、僕はハチコに向かってクッションを投げた。

「どうしてか聞いて」
「どうして」

 僕の言うとおり、ハチコは目を閉じたまま、諦めたような声で僕の言葉を繰り返す。

「びっくりだよ。クッキーがまた無くなったんだ」

 僕がそう言うと、ハチコはやっと一瞬だけ薄目を開けて僕を見た。まばたきが数回。僕もハチコを覗きこんでたから、ハチコがその目をまた閉じて、それからこっそり溜息をついたのがちゃんとわかった。

「この家でクッキーが勝手に無くなるときは」

 僕はソファーの下に落ちていた別のクッションを拾い上げると、それをハチコの胸に押し付ける。

「クッキーモンスターが現れた時だ」

 僕がわざと”モンスター”をゆっくり言ってあげたのに、ハチコは顔をしかめたままで呟く、

「鯉壱が自分で食べたの忘れちゃった時?」
「もう!」

 とぼけるハチコをクッションで殴ったら、彼は笑いながらやめてと叫んで、僕の腕を掴んで止めた。僕にやめてっていうときのハチコはいつもチャーミング。反省してるのかな。僕は疑惑の目でハチコを見据える。

「わかったごめん、俺が食べた」
「分かってるよ!」

 僕らのクッキーは一番高いところの戸棚に入っていて、緑露ちゃんの管理下に置かれている。彼女が知らないうちにクッキーが消えたら、誰の仕業かすぐに分かる。とぼけたってムダだよ。水槽の底で、クッキーがどれほどの価値を持つかハチコは知らないんだ。僕らにとってアレは、お金よりずっと価値あるものだ。みんなを幸せにする、魔法の食べ物なんだから。

「お腹空いてたんだ」
「かわいそうに、僕がお腹いっぱいになるまでクッキーを食べさせてあげる? ドリンク禁止で」
「悪かったって」

 ハチコは困ったように笑いながら、僕を見上げる。そんな目で見たって許さないんだから。女の子たちは騙せても、僕は騙せないよ。僕は今ハチコのお腹の上に乗っている。有利なのは僕。さぁちゃんと反省して。じゃないとこのままどいてあげないんだから。

「いっぱい食べないと気がすまない時があるんだよ。モンスターだもん」
「そのセリフ何にでも使えると思わないほうがいいよ」
「胸が苦しくなってきた」

 顔を歪めるハチコを見下ろすのは思ってたよりいい気分。そう思うのは僕がハチコに怒ってるからかな。今の僕、たぶん意地悪だ。だけどいい気分。すごく。彼は苦しそうに呻いて、でも困ったように笑いながら、芝居がかった声を出して僕を見上げた。

「鯉壱を食べずに我慢してるんだ、クッキーぐらい許して」
「ハチコ、僕を食べるかもしれないの? そんなの置いとけない。お家から追い出すしかないよ…」

 ハチコはこの、悲劇のヒロインみたいな、悲しくて死にそう、みたいな演技をするのが好きなんだ。僕が怒るとすぐやるから。だから僕もハチコと一緒に悲しいフリをした。やられるとちょっとムカッとする時もあるけど、でも実際にやるとなんだかちょっと楽しい。いいよね? ハチコが悪いんだもん。僕は、かわいそうなハチコを自由にしてあげる、と言って首を振り、彼を見下ろす。悲しそうな声を出して、適当なことを言ってみる。一緒に居られないんだ…。君はモンスターなんだから。

「別に僕はハチコが居なくたって構わないし…」
「本当に?」

 僕が呟くと、ハチコは急に真面目な顔で僕を見た。僕はちょっと驚いて、自分で言った言葉を慌てて振り返る。言いすぎた? 演技に身が入りすぎたかも。ハチコの瞳は真剣だ。僕は少し黙って、その瞳を見つめた。

「本当に俺が居なくて困らない?」

 本気なのかな。僕は、ハチコを見つめて思う。頭の中で、彼が言った言葉を繰り返す。困らないって言ったらどうなるの? 僕がハチコなんか要らないって言ったら、本当に居なくなるのかな。ふらりと消えて、二度と戻ってこなくなる? 本当にそう? やっぱり、ハチコはそうするのかな。
 僕が口を開けずにいる間に、ハチコはぎゅっと僕の手を掴んで引き寄せた。お腹の上に載ったままの僕は、ハチコの上にぽてっと転がされる。さらに近づいた距離で、ハチコは笑った。それから、冗談だよって、ハチコの方から言われた。そして今の一瞬を上書きしちゃうみたいに、掴んだ僕の手にキスをするから、僕はなんだか混乱して、顔をしかめた。

「ハチコって意地悪だね」
「もう怒らないでよ。俺が居ないと寂しいでしょ」

 ハチコが笑う。僕は笑うハチコを眺めてる。怒ったり悲しんだりすることも、ハチコが居なくなったらそれも、あっさり無くなるのかな。勝手にやってきて、勝手に帰って、消えちゃって、僕、たぶんすっごく怒るな。クッキーなんかじゃ怒りが収まらないぐらい怒って、怒って、泣いたりするかもしれない。寂しいって思うかな。寂しくても言わないよ。僕、だってハチコだって言わずに行っちゃうかもしれない。そう思ったら今度は不安になってきて、僕はハチコに聞いた。

「ハチコは? 僕が居なかったら寂しい?」
「寂しいよ」

 あっさりと拍子抜けするぐらい簡単に彼はそう言った。言っておいて、僕を見つめた。悲しそうな、そうじゃなきゃ死にそうな、いつものやつ。

「死ぬほど寂しい」

 ハチコは自分勝手。クッキーも食べちゃうし、僕に構わずずっと寝てるくせに、平気でそういうことを言う。でも、ちょっと安心する。僕はハチコなら平気でそう言うってわかってたのに、ちょっと安心した。僕がハチコのそういう態度に怒ったり、悲しんだりするのは、彼が来なくちゃ思わなかったことだ。ひとりだったらクッキーが勝手に消えることもなかったし、ハチコに意地悪していい気分になることもなかった。きっとハチコが居なくなったときに、寂しい気分になったりすることも。

「そろそろどいてよ」
「ダメ」

 僕の下で苦しそうな声を出すハチコに、僕はもう怒ってないけどそう言った。ハチコが困ったように、溜息をついて目を閉じる。また固まるのかな。僕このまま、ハチコの上に寝転がってていいの? 僕はハチコの鼻の先にそっと手を伸ばして、人差し指でつついてみる。

 ねえハチコ、僕が今どんな気持ちか、当ててみて。