午前4時40分の透明な記号

僕の彼女は、外に出たくないと言う。
青い灰色の空。冷たい朝の臭いがする。エヴァンジェリーナはベッドの中。
一昨日の夜から読み始めた本が、さっきベッドで眠る彼女の寝顔を見ようと部屋を覗いた時にはもう、サイドテーブルの上で3分の1になっていた。
たまには外に出て新鮮な空気を吸えよ。
僕がそうやって懇願したって、彼女は黙って本をめくるだけだ。

昨日は悲しい気持ちになったけど、朝目が覚めてまだ暗い朝の光と空気を目の前に呼吸すると、まだ彼女の部屋の中のほうが安全な場所なんじゃないかという気が僕にもする。この空気を吸ったら活字で構成された彼女の透明な魂が雑多な外の世界に溶けて流れ出して薄まって、僕はもう二度と彼女が文字をなぞるその白い指を眺められなくなるんだ。

いくら僕よりずっと聡明で美しい彼女の知性溢れる特別な脳味噌でも、今この僕の目に映る青を、薄暗い空の色を、空気の匂いを、肌を撫でていく風の重みを、文字という記号に置き換えることは正確な意味ではできないから。そんなことはこの世界を探しても誰一人としていない。いないに決まっている。だって文字は所詮単純な記号で、そして、それ使う人間が、単純な記号で置き換えられないものだからだ。世界は広く鮮やかで、難解かつ複雑で、そしてじっとりと重たくて、色を持たない活字としての記号でしかない彼女も僕も、きっと、離ればなれになる。

だから朝露に濡れた世界を、僕は黙って窓から眺めた。

キィ、と控えめにドアが開く音がして、振り返れば、恐る恐るといった感じで、パジャマ姿のカティがそうっと首をのぞかせる。肩をすくめて、首を伸ばして、裸足の小さな足をそろそろと、まだ暗い廊下に伸ばす姿。廊下の窓の傍に突っ立った僕に気づいたカティは、びくりと体を硬直させて、うさぎみたいに鼻の頭だけをひくひくさせた。

「おはようカティ」

笑いながらそう言えば、ペットのカティは、不安そうに目をぱちぱちする。
彼女はここへやってきて二週間。いまだに、彼女を引き取った僕らが、自分を食べると思っている。

「おいでよ。外を見てるんだ」

悩めるモンスターは怯えるリヴリーにそう笑いかける。カティを食べる気はない。だけど彼女は言葉を喋れないから、何度言っても、僕の本当の気持ちがわからない。言葉しか食べない僕の彼女も僕の気持ちを分かりはしないし、僕だって愛する彼女の気持ちを100%理解できるわけないんだから、当然だ。

カティは大人しく、僕の隣から、つま先立ちで窓を覗いた。太陽はまだ登ってこない。ぼやけた青と、滲んだ灰色の世界。淡く曖昧で、霧がかかったような、どことなく肌寒い、冷たい世界だ。黒い森と、緑の丘と、遠くに、赤い屋根の街が見えるだけ。ひっそりと静まり返り、たまに寝ぼけた小鳥の声がする。

すんすん、と小さなリヴリーは、朝の香りを嗅いだ。それから眠そうな目を一度こすって、もう一度背伸びし直した。窓枠にカティのハンバーグみたいな手がちょんとのっかる。気持ち程度に付けられたようなちっちゃな指。思いの外冷たい空気が、彼女の肌をこっそり撫でていく。

モンスターが二匹と、小さなペットのリヴリーと、ペットのペットのポピイヌだけが住んでいる、本とホコリだらけの古い屋敷。カティが住んでいた街は、ここからは小さく、屋根しか見えない。じっと街の音に耳をすませるように、彼女は街の方角を見つめた。

朝。街から離れた古い洋館。舞台として記される文字はそれだけ。
書き込まれた文字の隙間に香る朝の気配を、エヴァンジェリーナ、君なら、どうやって記すんだろう。どんな言葉で、この景色を。
エヴァンジェリーナは本の中の生き物だ。僕よりずっといろんな世界を知っている。いろんな色やいろんな言葉を使う、いろんな表現を知っている。膨大な知識と情報量の中から、彼女は選び放題だ。
だけど、それでもなお部屋の中を選ぶ彼女のことだから、もしかしたら拒否反応を起こすかもしれない。うんざりしたように窓を閉めるかも。言葉を持たないカティでさえ一生懸命この朝の光を見つめるのに?
だがそれでもいい。彼女なら、何をしたっていいのだ。それが彼女の生き方だから。

「カティ、散歩に行こうか」

ぽつりとそう告げれば、カティは不思議そうに僕を見上げた。

「おいで」

窓辺を離れ、軋む廊下を歩き出す。カティが僕を見上げたまま、そっと後ろをついてくる。
言葉にならなくたって、記号として明確でなくたって、伝わるものはある。
だけどそれが文字の世界に住むエヴァンジェリーナにとって良いものかどうか、僕にはまだよくわからない。
出かけるのだと気づくなりばたばたと僕を追い抜いたカティが、パジャマ姿のまま、嬉しそうにドアを飛び出していく。
裸足のままの小さな足が、朝露に濡れた世界を踏んだ。