めそめそは遺伝する

めそめそは遺伝する。

エマがそのいい例だと、俺は小さな彼女の頬を突付きながら思う。
ふえ、と文句を言って、この小さい生き物はすぐめそめそと泣くんだか泣かないんだか曖昧な風に助けを求める。
この子は大きくなってもこうやってめそめそやる子になるんだろうか。

そう思うのは、彼女の母親がそのパターンの女であるからだ。
彼女の母親も、よく泣く女だった。
初めて俺が彼女に出会った時も、彼女は泣いていた。

チーフが女を攫うような悪趣味な誘拐犯のアジトを突き止め、命令を受けた俺がその陰湿な部屋のドアを蹴破った時、そこにぽつんと座って顔を覆って、めそめそやっていたのが彼女だった。
俺を見るなり彼女は一瞬ぽかんと間抜け面を浮かべて、その時の顔が、忘れもしない、全く、俺から見ても攫われて当然だと思うほど大人しそうなアホ面だったから、俺は助けに来たというのにその場で回れ右してドアを閉めたくなったのだ。俺がそういう半分呆れた理由で静止している間、彼女は俺をじっと見つめ、その後にひぐ、と一つ鼻をすすった。それから間髪入れず俺に向かって脱兎のごとく飛びついて、人目もはばからず(といっても俺以外の人目なんかあの密室になかったけれど)俺の腕の中でわあわあうるさいぐらいに泣きだした。

あれが、俺が初めて見た彼女の涙だ。あいつは俺と出会って三秒で号泣している。
俺が犯人の仲間だったらどうするつもりなのかと、至極冷静に俺が考えている間に、彼女は何も言わずにわあわあ順調に泣いて、泣いて、泣き腫らして、俺のシャツを涙でぐしょぐしょにした。
ただそれが心からの安堵から来る涙であって、悲しみや怒りの涙では無いことは俺にも分かっていたので、俺は黙って彼女に抱きつかれて、彼女の頭を撫でてやっていた。
近くで見るとまた、まるで子供かと思うほど幼い顔立ちの女だった。チーフから聞かされていた話では22歳という話だったが、体系も小柄な身体で軽そうで、ああまさに、誘拐にうってつけの身体だ、とぼんやり思ったのを覚えている。

『オーキッド』

一向に泣きやまない彼女を抱えていると、耳につけていたインカムからヴィンセントの声がした。
それで俺は出来るだけ慎重かつ丁寧に彼女の背から腕を離して、耳に手をやる。

『人質どうした? いたか?』
「ああ、すこしかすり傷があるが、無事だ」
『犯人の仲間を取っ捕まえたぞ。たぶんそうだろう。今から人数吐かせるが、こいつやってもかまわねェよな? チーフに何か言われてるか?』
「例え言われたとしてもやるんだろう? 俺は許可は出さないぞ」

俺の皮肉が聞こえたのか聞こえていないのか、ヴィンセントは何も言わずに通信をブチ切った。
それでも俺にはあの男が、怯える犯人に向かってニヤニヤと拳銃を突きつけているところが容易に想像できる。
ぐずぐずと未だに鼻をならす腕の中の華奢な女に、大丈夫か?と声をかける。
頷いて、息を吸って、吐いて、を繰り返す彼女が落ち着きを取り戻すのを待ってから、彼女に俺が着ていた上着を着せた。
誘拐事件のような下準備にばかり時間や手間がかかって、犯人にとって捕まるリスクも高いこの手の事件は、それほど頻発するものではない。
しかし確かチーフの情報によれば、彼女は資産家の一人娘で、まさに攫ってくださいと言わんばかりのこの体系だ。娘想いの父親は彼女に護衛を付けていたというが、何事にも抜け穴はある。不運な彼女はまさに捕われるべくして捕われた境遇だった。

「もう泣くな。大丈夫だから」

俺に言われて、漸く彼女は俺の目を見た。まだ引き攣るような息をして、瞳には涙を一杯溜めていたけれど、俺が「泣くな」と言ったので泣くのを我慢しているようにも見えた。
よほど怖かったのか、よく見れば彼女は汗びっしょりで、額に髪が張り付くほどだった。
それを丁寧に指先で直してやって、俺は彼女を安心させようと微笑んでみせる。
いくら怯えた顔でも、見れば見るほど、気立ての良さそうな娘だと分かった。

「歩けるか? 痛いところがあれば言ってくれ」

なるべく優しい声を出して、俺は彼女の肩を支える。彼女をまた怯えさせるわけじゃないが、ここでずっと泣かせているのは危険だと俺は判断した。続々とTEPDが集まってきてはいるし、制圧に時間はかからないだろうが、まだ犯人の人数が特定されていない以上、彼女がまたいつ襲われてもおかしくはない。
彼女は小さく首を振って、俺に引っ張られるように歩き出した。

と、その時、鋭い銃声が辺りに重々しく反響した。悲鳴を上げて、彼女が崩れ落ちる。おそらくなかなか人数を吐かない犯人に業を煮やしたヴィンセントが発砲したのだろう、それか喋った犯人にとどめを刺した音か。俺はへたり込んだ彼女を無理矢理立たせながら、手を耳にやる。

「ヴィンセント、お前か?」

続いて、もう一発。続けてニ発。何度聞いても聞き慣れない音が、耳の奥にわんわんとしつこくこびりつく。ヴィンセントから反応はない。どっちにしろ、スイッチの入った奴には誰の声も届かない。
だが、危険は回避するに限る。もしかしたらあの男が撃たれた音かも知れないのだし。また泣き出しそうな顔をしている彼女の手を取ると、俺は彼女に笑いかけた。

「ベティ、立つんだ。俺が君を抱いていく。いいね。少しの間だ。我慢してくれ」

ぽかんとした間抜けな顔。本日二度目のそれは、もはや愛くるしさすら感じる。俺は状況を全く理解し切れていない彼女の華奢な身体をひょいと抱えて、走り出した。

走りながら、腕の中の彼女をちらりと見た。怖がっているだろうと思っていたのに、目が合った彼女はまだぽかんとしていた。死ぬかも知れないのに、この状況で、なんて間抜けな。俺は溜息を吐くのと同時に、彼女にバレないように小さく笑った。

***

後で分かったのだが、彼女はあの時、何故俺が自分の名前を知っているのかと不思議に思っていたそうだ。単純極まりない話、普通そういう基本的な情報は、突入はもとより捜索前からチーフから部下へ下りるものだ。

「だってあの時はオーキッドさんが保安官だって知らなかったのよ」

キッチンで泡立て器を片手に、ベティがこぼす。あの状況で、それすら理解せずに俺の腕に飛び込んだり俺に大人しく抱えられたりしていたとは、ベティ、お前は正真正銘のアホだな。俺はお前の頭の中が心配だ。

「お前、俺が犯人の仲間だったらどうするつもりだったんだ?」
「でも、あの時は…。オーキッドさんと目があった瞬間に、この人は私を助けに来てくれたんだって分かったの。乙女のカンよ」

半分嬉しそうでもあり、半分恥ずかしそうでもある声でベティははにかんだ。
あのぶっとんだ行動は極度の緊張状態から冷静な判断がつかなくなっていたのだという結果を用意していた俺としては、あまりにも間抜けすぎて口が開く。なんてアホらしい回答だ。そんな曖昧な答えで納得できるか。

「今度誘拐されても、また最初に部屋に入ってきた男に飛びつくんじゃないだろうな」

この女ならやりかねないなと思いながら、俺は冗談まじりにベティを見る。
一瞬眉を下げたベティの顔、そんなことしないよ!と喚くか、めそめそ泣き出すかと思っていた俺の期待とは裏腹に、ベティは眉を戻し、少し頬を赤くしながら、泡立て器についた生クリームをしきりに舐めはじめた。

「飛びつくよ。だってオーキッドさんが絶対一番に助けに来てくれるはずだから」

自分でそう呟くなり、見る見るうちに耳まで赤くなり、がしゃがしゃと一心不乱に泡立て器をふるい始める彼女。
全く、呆れるほどどうしようもない女だ。
執拗なほど泡立てられる生クリームが不憫に思えてくる。
ただ、あの時の俺はこんなベティの表情が見られるとは思っていなかったのも事実で
あの最初の一瞬で、こいつのアホで単純な思考回路が、本能的に俺を味方だと判断してくれて良かったと、思わないではいられない俺である。

何に文句があるのが、俺の指先に大人しく突付かれていたエマが急に文句を言い出して、めそめそ言い出した。
ベティがはいはい、と母親らしい声を出してエマに駆け寄り、小さな彼女をそっと抱き上げる。

「エマちゃんは泣き虫ですね〜、そんなんじゃパパみたいな強い保安官になれませんよ」
「生まれて間もない赤子に何を言う」

それにお前が言うか、と思わないでもないのだが、エマの顔を見つめて自分までめそめそしているベティは、なんだか愛らしくもある。
何が不満なのかエマは今にも泣き出しそうで、泣かないの、泣かないの、と泣きそうな声で呟くベティが、オーキッドさあんと間抜けな声を出す。
俺はエマが泣き出す前にさっさと立ち上がって、ベティが先ほどまで泡立てていた生クリームを、小さなエマの口に突っ込んだ。

めそめそは遺伝する