何処かで誰かは幸せな日

カレンダーが、何故か8月のままだった。
私はカレンダーを使わない。だけど適当に引っ掛けておいたのは、そのほうが生活感というやつが出るかもしれないと思ったからだ。ドアに引っかかった夏の思い出。もう冬がすぐそばまで来ているのに。放っておかれたカレンダーは、想像していたより寂しい。
一瞬で過ぎ去った夏の楽しさを引きずったまま、勝手にじわじわやって来る冬に苦しめられているのは彼も同じ。気付けば彼はいつの間にか一人ぼっちで、まだぼんやりした顔でただベッドに横になり、唇を舐めていた。
「私ってそんなに美味しくない?」

ベッドの中。どっと押し寄せてきた疲労感に耐えられずに大人しく彼の横にぼすりと倒れた。頭がクラクラしてる。ずきりと痛む首筋を撫でたら、指先に血が付いた。彼は表情一つ変えずに口についた最後の雫を舐めながら、見るともなしに私の方を見る。せっかく血液を提供しているのだから、もうちょっとまともなリアクションをして欲しい。
ぼんやりぼんやり。この時期のハチルは基本的に無口で、目を開けていても夢を見てるようだ。
彼の視界に入っても映らず、耳には聞こえても届かず、触れても感じず、起きてても、寝ていても、あまり違いがない。
人形みたいだ。美しい、モンスターの、人形。

「何とか言ってよ」
「…何?」
「私の血、美味しくないの?」
「……マズいよ」
「ひどい」

少し開いた唇で、クスリの味がする、と漸く呟く彼の横顔。
私は勝手に微笑んで、ぎゅっと彼の腕を抱いた。

「言う割には飲んだくせに。頭痛いの、ハチルちゃんのせいだからね」
「………」
「ズキズキするんだから」
「………」

謝罪も無しか。無反応。普段の彼じゃない。分かっている。これは病気なんだ。頭では分かっていたけど切なくなって、私は抱いていた彼の腕をますます強く握った。
リヴリーって、やっぱりいっぱい血を抜かれたら死んじゃうんだろうか。
ぼんやりと、そんな疑問が頭をよぎる。どれくらいなら彼にあげられるんだろう。
本当は、きっと、血なんかじゃお腹いっぱいにならないんだろうな。優しいから、言わないだけなんだ。
クスリの回った私の血なんかじゃ、きっとダメなんでしょ。
ハチルが無口だと、私までいろいろ考えてしまう。無口なあなたも素敵よと、口ではふざけて言えるけど、やっぱり、本当は辛い。
早く元気になってよ。私、あなたのためなら何でもするから。何でもだよ。本当に。

「ねえ」

呟いた声は、届いているんだろうか。そっと顔に手を伸ばせば、彼はウサギみたいに大人しく目を閉じる。
信じられないよなあ。さっきまで泣きじゃくってたのに。大の男が道のど真ん中でしゃがみこんで。それが今は、ペットみたいに大人しい。
不安になる時もある。だけど、こうやって私が頬に伸ばした手を、彼の手のひらが上から包む、その瞬間が心地よくて、
やっぱり私、彼が好きなんだって、どうしようもなく胸が痛くなる。

「何考えてる?」
「…今すぐ世界が滅びればいいのにって」
「じゃあわたし、ハチルちゃんと一緒に死ねるんだ」
「…………」
「すぐ黙らないでよ」

口を閉じた彼が私じゃない別の誰かを考えていることぐらい、あなたに恋する私はすぐに分かってしまうから、
冗談のつもりで言った言葉は、思っていたよりずっと弱々しく掠れて消えた。
彼の頭の中に別の人がいることぐらい、そんなことぐらい、付き合う前から知ってる。
本当に彼とともに世界の終わりを過ごす人が羨ましい。
彼が本当に望むなら、今すぐ世界が終わっちゃったって私は構わないよ、神様。
彼のそばで、彼の腕の中で、死なせて下さい。
こんな薬漬けの体で良ければ、彼にあげて下さい。
もしかしたら彼にとっては有害かもしれない。だけど、最後まで残さずに食べてほしいなあ。こんなにも、愛してるんだから。

寂しくなってぎゅっとハチルの体にくっついたら、私の腕に絡め取られた彼の腕がぴくりと動く。
イヤなんだなあと分かるのは、分かってしまうのは、私がハチルを愛しているからだ。
だけど、離さない。この腕を振り払って逃げる体力が今のあなたに無いことを、あなたを愛する私は知っている。
今だけだ。彼が大人しく私のそばに居てくれるのは。
今だけは、黙って消えて、いつの間にか一人ぼっちにされたりすることもない。この腕さえ私から離さなければ、一緒にいられる。
縋るように絡める指。しつこいと食べられちゃうかな。そう思ったら、ねえ、ますます腕に力がこもっちゃうの。私ってバカでしょ。

「さっき飲んだ血、私の血、ハチルちゃんの中に流れてるんだよね」
「………………」
「変な感じ。だけど嬉しい」
「嬉しい?」
「嬉しいよ。一緒になってる。あなたの体の中で」

ハチルは目を閉じたまま、うんざりしたように言う、ポジティブだね。
なんとでも。私がモンスターだったら、ハチルちゃんには食べてもらえなかったんだし。私はリヴリーに生まれて幸せ。
ふふっと笑って見せたら、ふいにハチルがこっちを向いた。
黄緑色の目。心臓がきゅっと痛くなる。あなたと見つめ合うと時間が止まるって言ったら、彼は信じるかな。
心臓がどきどき言って、目を閉じてしまいたくなるような、夢みたいに堪らない嬉しさが半分。
何か言いたげなその唇から放たれるであろう言葉に、怯えて揺れる、不安な気持ちが半分。
いつもそう。私、ほんとは怯えてる。愛しくて、切なげな、私を悲しませてばかりのあなたに。

「…俺は、モンスターなんかに生まれたくなかったよ」

ねえ、ねえやめて。
そんなこと、言わないでよ。
目を伏せるハチルの、下がった眉がたまらなく愛しい。
切なくて思わずその顔に手を伸ばしたら、彼は素直にその手に頬を寄せた。

「…悲しいの?」
「うん」
「おクスリあげようか? ハチルちゃんにならあげてもいいよ」
「いらない」

疲れた顔で小さく首を振るその姿は大きな子供みたいで、まるで弱って何も出来ない普通の人みたいで、
ああ、でも、そうじゃないってことは、彼自身が一番良くわかってるんだ。
弱れば弱るほど彼はバケモノに近づいていくんだ。
こんなに優しくて、こんなに大人しくて、こんなに、泣きそうな顔してるのに、彼はモンスターなんだ。
ずきりと、いまさらまた首筋の傷が痛む。
彼の苦しみを取り除いてあげたいと思うのに、私は何も出来ない。
私がモンスターだったら、あなたを救えたの? あなたのためなら、食べられたって、別にいいのに。

「あなたのために何かしてあげたい。幸せになって欲しいよ」

ハチルの頭を撫でながら震える声を絞り出す。
かみさま、これ以上彼を苦しめないで。
代わりに私がどんな罰を受けたっていい。
お願い。

「…………黙って静かにしてて。何もしないで。俺を放っといて」
「そばに居て、手を握ってる。静かにしてるから、ここに居させて。あなたのことが好きなの」

うわ言のように小さく呟かれるハチルの拒絶が、ずっと聞こえてないわけじゃない。
さっきもあの道で、しゃがみこんだ彼が小さく離してくれと懇願してたのだって、本当はずっと聞こえてた。
ねえ、でも、私あなたをほっとけないよ。
あなたをこんなにも愛してる。もうどうしようもないくらいに愛してる。
だから彼の隣で、彼のためだけに、囁くように繰り返す。好き。好きなの。あなたが好き。
ハチルの耳に届いてるのかは分からない。彼は目を瞑ったまま、私の方なんかちっとも見ないまま、消えそうな声で言う。

「知ってるだろ。俺は最低な奴なんだ」
「知ってるよ。そんなことぐらいで、嫌いになったりしない」
「君に…優しくされたくない」
「させてよ。私に優しくしたくせに」

こんなにも好きにさせたくせに。
好きだからそばに居させろだなんて、自分勝手なことだって、自分自身でも思う。
彼が拒絶できないことを知っていて、私より今この空間にふさわしい誰かがいることを知っていて、それでも彼の頬を撫でたりするのは、本当はいけないことかもしれないって、ちゃんと分かってる。
でもあなたもよく知ってるでしょ。私、自分勝手な女なの。
本当はずっとね、あなたもそう。
だから、あなたは、意地悪されても文句が言えないの。

どんどん小さくなっていくハチルの呼吸に、私はどうにか自分の呼吸を合わせようとした。
本当は置いてかないで欲しかった。だけど、彼が勝手に眠ってしまうのを止められないことは経験上分かっていた。彼がどんなに怯えて寝たくないと言ったって、結局彼はいつか眠ってしまう。彼はそういう生き物だから。
寝ちゃうの?と聞いたら、ハチルはまるで寝ぼけた子供みたいにもごもご口を動かして、首を振った。

「何もかも全部…夢みたいだ…ぼんやりする…頭が使えない…きっと…君の…血のせいだ」
「じゃあ、いい夢見られるよ」

私はおどけて、彼のおでこにキスをする。
いつまでもこの瞬間が続けばいいのに。ずっとずっと、永遠に、続けばいいのに。
私の隣に彼が居て、彼の息遣いがそばで聞こえて、私は彼の寝顔をただ見つめる、それだけで、幸せな、この瞬間が、永遠だったら。

ナースチェンカ、とふいにハチルが私の名前を呼んで眠そうな瞼を開いたから、泣きそうだった私は顔を上げて黄緑色の瞳を見つめた。
なあに、ハチル。私、ここにいるよ。

「君に謝らなくちゃ」

消えそうな声。なのに、はっきりと心臓の奥まで痛みを感じる。
夢みたいだった幸せが、急激に冷えて私に刺さる。
ハチルの息遣い。唇の動き。また、彼の瞼が落ちる。
ダメだよ。ハチルちゃん、お願い。その先は、言わないで。

「君のこと、俺は…」
「言わないで」

震える声で、そう頼んだのに、唇を塞ごうとしたのに、体が動かなかった。
それは得体の知れない、グロテスクな凶器だったのに、小さく吐き出される彼の声が優しすぎて
まるで、何かやわらかくて、小さくて、そして恐ろしく重たいものが、ゆっくりゆっくり時間をかけて、心の中に無理矢理めり込んでいくみたいだった。

酷く、心の底から怖いのに、叫びたくても叫べない。
ベッドのシーツを握りしめる手が、ゆっくりと強張って感覚を失う。
本当は、脳の一番冷静な部分では、分かっていた。
そう、私、分かってたの、ハチルちゃん。

「君を愛してる、だけど、一番にはできない。許して」

空気に溶けるような、優しくて、泣きそうな声だった。

ごめんね。
私、分かっててそばにいるのよ。
あなたさえ傷つける身勝手な行為だって、分かってて、それでもそばにいるの。

「言わないでって、言ったのに」

今度こそ声が掠れて詰まる。
何故だろう。どうしてこんなにも、こんなにも、悲しいんだろう。
ちゃんと、分かってたのに。私、ちゃんと全部、分かってたのに。

溢れかけた涙を無理矢理拭って微笑んだ、
ハチルはもう目を閉じて、小さく寝息をたてるだけだったけど、それでも心の中で繰り返した、
悲しくなんか無いの、私は今しあわせなの、あなたを愛してるから、それで十分なの。

「おやすみ」

眠る彼の瞼の上、その行為が何の意味も持たないことを知っていて、それでも、
私はできるだけそっと、優しく口づけを落とした。

141108→150325 放置してたのを手直し / title by Raincoat.