猫1匹分の居場所

エマが拾って来た子猫が死んだ夜、普段は強気なエマが珍しく涙目で俺にせがんだのは、「そばにいて」という端的かつ単純なことだった。彼女はいつもと同じように歯を磨き、服を着替えて、おとなしく、ただ淡々と眠るための支度をしていたが、言葉は少なく、表情はなく、ただ毎晩繰り返していることをその日も繰り返しているようだった。エマはベッドに潜り込むなり今日自分の手のひらの中で死んでいった生き物のために涙を流し、俺はただそれを隣で眺めていた。TEPDにいる間に死体なんぞ嫌という程見てきただろう彼女が、それでも声を押し殺し、しゃくり上げるように泣いていた。白い布団に埋まったエマの小さな体がひっく、と揺れるたび、彼女の柔らかなサーモンピンクの髪が崩れて溢れる。その夜俺は、エマが泣くのをずっと隣で眺めていた。

***

 彼女が猫を拾ってきたのは三日前だ。来る途中、家のすぐそばに捨てられてたんだと、遅めの昼食を膝の上に広げながらエマは深刻そうに告げた。俺は顔をしかめてエマを見る。猫が心配だったからじゃねえし、迷わず職場にまで連れてきたエマの心の広さに感動したわけでもない。仕事の合間にやっと広げられたエマの手製の弁当の中身が、今日も昨日も一昨日も、同じおかずだったからだ。エマの足元で卵焼きを突っついているやせ細った子猫にそれほど興味はない。俺の興味の中心はエマだけだ。一人暮らしで自炊してるだけ偉いもんだが、俺に言わせりゃ猫の心配なんかしてないで、お前自身が栄養のあるものをちゃんと食べるほうがいい。

「猫なんか拾ってる余裕あんのか? 食費がどうのって言ってたくせに」

 いつまでもチビのままだぞ、と嘲笑気味に吐き捨てれば、うるさい、と睨まれる。
「フリッカはろくでなしだから、言うこと聞かなくていいからね」
 エマの優しげな声に、猫がニャア、と返事をする。何もわかってないくせに。と俺はぼんやり思う。

 空に迫るほどの高層ビルが乱立し、何百万人もの人間が行ったり来たりを繰り返すこのディオーカーズ地区に、小さな子猫が一匹、ひっそりと紛れ込み、生きるだけのスペースはいくらでもある。隣を歩く人間がどんな人物であるかさえ気にしないのがこの街のいいところだ。それがわかっているから俺は今日ものんびりエマとゆるくて平和なランチを楽しんでいられる。俺は座り込んでいた階段から腰を上げ、ビル群の向こうに広がる3rdサーバーの街を見下ろした。人々は、この街の安全を守る自警組織であるTEPD本部の屋上で、一人手製の弁当を食べる小さな少女に決して気づかない。だから、当然、指名手配犯が自警組織の人間と一緒に本部の屋上でのんきに昼飯食ってるなんて天地がひっくり返っても思わない。俺をこのくだらない世界からたった一人で見つけ出したのは彼女だ。誰も気にも留めない、小さなゴミクズ同然の生き物を拾うのが、きっとエマの趣味なのだ。

 足元にじゃれつく子猫を優しく撫でながら、エマは卵焼きをもう一つ足元に落とした。慈愛に満ちた目で、まるで幼い妹か子供を見るような目で、灰色の汚れた猫を撫でる。その指に、迷いはない。

「俺がちゃんとお世話してあげる」
「…生き物なんか、軽い気持ちで助けるもんじゃない」

 微笑み、安心させるようにそっと告げる、まるで宣誓のようなエマの独り言に、いじらしささえ覚える。だが、微笑ましいとは思わない。つい口からこぼれた蔑むような声色に、敏感なエマはすぐさま眉間にしわを寄せた。

「なんで。悪いことみたいに言うな」

 エマは俺を怪訝そうに見ながら、そうして手元ではまた最後の卵焼きのかけらをすんなり猫に与えた。なんだかそれが、そんなことが、ただただ俺をイラつかせた。なんでだと? 心の中で唸る。んなことはどうだっていい。俺はお前のために言ってやってるんだ。

「名前つけないとな」
「やめろって」
「なんだ、俺がこの子に構うからさみしいのか?嫉妬してるのか」

 ありきたりな台詞を吐いてみせて、にやにやとエマは笑う。笑うエマが可愛い。猫に嫉妬するなんて、お前可愛いとこあるな!なんて、ほざいて見せるエマが可愛い。だから俺はエマに言った。「そいつはお前には助けられねえっつってんだよ」。俺の声を聞くなり、エマは俺を睨んだ。猫に向けていた視線を引き剥がすように俺の方へ向けた。それから噛みつくような口調で吠える、「なんだって?」

「さっきからなんだよ。俺には無理だって言いたいのか?」
「そうだ。きっと不幸にする」
「そんなことない」

 俺の言葉を遮るように、食い気味に、はっきりとエマはそう言った。彼女は俺に負けないくらい短気だ。「お前なんかには無理だ」って言葉が、世界で一番嫌いだ。俺が言えば頭に血がのぼるのはわかっていた。エマは怯むこともなく俺を睨み、膝の上の弁当箱をどかし、猫にも構わずいきなり立ち上がるとズカズカ俺のそばへやってきて、小さな姿で、それでも強気な態度で、俺を牽制するように言った。

「フリッカ。俺を惑わすな。俺は正しいことをしたいんだ」

 俺は彼女の瞳を見つめる。赤い瞳の奥に揺らぐ、強い意志。
 正しいことか。正しいこと。俺は頭の中で繰り返す。そうか。お前は正義のヒーロー。正しいことを正しく行うのだ。善を信じ、弱きを助ける。そのためにどんな代償が必要かなんて考えもしない。何を犠牲にするかを、選びもしない。

「クソ生意気に」

 俺が吐いた途端、エマはただの子供に戻った。俺が彼女の腕をひっつかんで、その小さな体をコンクリートの壁に思い切り押し付けたからだ。エマの背中を受け止めた壁はドンと大げさな音を立て、猫は驚いて飛び跳ねた。

「正しいことなんかこの世に一つもない。お前がお前のエゴで勝手に正義を振りかざしてるだけだ」
「お、お前なんかに言われたくない」
「俺を見ても、まだこの世に正義があるって思うのか?」

 俺の言葉に、エマは目を細めた。首元に入った俺の腕を抑えながら、エマはなお文句を言おうと口を開き、俺はますますイラ立ってエマの顎を掴む。

「こんなの連れて帰ったところで良いことになんかならない。お前が満足に浸るだけだろ。どうせならその猫だってお前以外の奴に拾われた方がマシだって思わねェか? 俺が言ってんのはそういう話だ。自分の力量も、状況さえ、判別がつかねえくせに。お前見てるとイライラすんだよ」
「うるさい!」

 子供のくせに、と咄嗟に口について出そうになったとき、エマの右足の蹴りが俺の体に当たった。痛くなんかない。だけど怯んだ。自分が言おうとした言葉が、エマに伝わったと思ったからだ。怯んだせいでエマを掴んでいた手から力が抜けて、エマの体は壁を重力に沿って落ちた。そこで初めて俺は自分の息が上がっていることに気づいた。落っこちたエマが立とうとして、我に返った俺はそれを手伝おうと手を出した。しかしエマはぱちんとそれを払いのけ、悔しそうにただ唸った。

「うるさいんだよ。お前はいちいち」

 エマは顔をあげなかった。彼女を見下ろしたまま、俺も動けないでいた。エマは怒っていた。そんなの、顔を見なくたってわかった。屋上に風が吹いて、エマは不機嫌な態度を隠そうともせずに舌打ちをする。

「しらねーよ。俺が絶対幸せにする。決めたんだ」

 騒動の一部始終を離れたところから見ていた灰色の猫が、どこからかニャア、と短く鳴いた。

***

 頑固なエマは猫を連れて帰った。絶対に幸せにすると心に決めて。仕事が終わったその足で餌を買ったりおもちゃを買ったりして、小さな生き物を喜ばせようと奮闘した。風呂に入れて綺麗にして、撫でて抱きしめて頬ずりしてやった。エマはこの猫を大事にして、愛情をたっぷり注いだ。全てこの猫を幸せにするためで、自分にはそれができると証明するためだった。しかしそれからすぐのことだ。子猫がぱたりと、突然死んだのは。

 俺が彼女の部屋に行った時、もう猫はぐったりと動かなくなっていた。何があったのかは知らないが、エマはソファに座って、その膝に猫を抱き、目に涙をいっぱい貯めて、それでもなお、それをこぼさないように我慢していた。「エマ」、と彼女に呼びかけても、彼女は微動だにしない。俺はソファに座る彼女の前へしゃがんだ。猫は眠るように瞼を閉じていて、俺にはそれが死んでるのかどうかもよくわからなかった。

「わかってたの?」

消えそうな声でエマが言う。

「何を」
「死んじゃうって」

 なるべく落ち着いた声を出せば、エマはゆっくりと声を押し殺すように続けた。俺はただ深く息を吐いて、彼女の膝の上に横たわる小さな猫を見つめ続けた。

「知らねえよ」

 少しの間沈黙が続いた。エマが俺の嘘に気づいたかどうかはわからない。だけど俺の方が先にその沈黙に耐えきれなくなって、半ば無理やり口を開いた。

「お前はどうだ。わかってたんじゃねえのか。このままじゃ死ぬって、そう思ったから連れてきたんだろ」
「信じないと」

 エマの声が揺れて、猫の上に雫が落ちた。俺は耐えきれずに彼女の顔を見上げた。エマはその瞳から涙をこぼして、いつも俺に文句を言う時みたいに眉を歪ませて、しゃくりあげながら言った。

「信じたいんだ。自分の決断を。正しかったって。間違ってるのかもしれないけど、でも、信じたいんだよ」

 堰を切ったように、エマの小さな体が震えて、涙が溢れてくる。俺はたまらなくなって、泣き出すエマの顔を見つめた。泣くなよといつものように言いたかったが、それもできなかった。エマはこの猫が死ぬのをわかっていた。それでもここに連れてきた。そうだと思った。エマはそういう人間だ。自分が正しいと思ったことを信じるのだ。周りがなんと言おうと関係ない。それが正しいか正しくないかすら関係ない。だからこそエマは、世界でたった一人、この俺を見つけ出した。救うべきだと信じて、俺を追いかけてきたのだ。

「ねえ、フリッカ」

 しゃくりあげながら、彼女は俺を呼ぶ。それがどういうことか、考えもしないで。俺は彼女の声が愛しいと思う。彼女のかすれる声が、伸ばされる指が、彼女の涙が、どうしようもなく不器用で、一途な彼女のことが、俺はどうしようもなく、好きだと思ってしまうのに。

「いっしょにいて」

 あァ、エマ。言ってもお前はわからねェだろうな。俺は喉まで出かかった言葉の代わりに手を伸ばして、彼女の頰を撫でた。失くすくらいなら最初から求めなければよかったって、お前は思わない人間だ。そんなことを考えもしない。一緒にいることを選んで、その代償が何かも考えないで、安易に手を伸ばして、笑って抱きしめるだけだ。だったら、エマ、俺が死んでもそんな風に泣いてくれるか。俺がこの世界からいなくなっても、お前だけは、俺のために泣いてくれるって、信じてもいいか。お前があの小さい猫に与えた世界を、その正しさを、俺も、一緒に信じていいのか。お前の隣に、俺は、いてもいいのか。

「いるよ」

 俺は正しさなんか知らねえけど、でも、お前がそれを望むんだったら。俺は俺のエゴで、ここにいるよ。
 掠れた声で答えれば、エマは俺の手に擦り寄るように頭をくっつけた。手のひらですっぽり隠れそうな柔らかいその頰をそっと撫でれば、そこは通ったばかりの雫で濡れていた。たった一匹の小さな猫のために、エマはその夜、一晩中泣いた。