俺からは奪えない

血だらけで倒れている二人を、このまま永遠に眺めていたいと思った。
グチャグチャになったベッド。赤いシミだらけのシーツ。青白いハチルと、そのうえに倒れこんだクイン。
そこだけ時間が止まってるみたいだ。ずっと前から二人はそうして、何度も何度も死にかけては目を覚まし、またクインは気まぐれにハチルに手を伸ばし続けた。
ずっと昔から二人はそうやって生きてきて、片時も離れたことはない。そう錯覚するような光景だった。グロテスクで、むしろ崇高な美しさがそこにはあった。

首筋をよく見れば、ハチルの傷跡はもう塞がっていた。いくらモンスターの治癒能力が高いとはいえ、一体何時間眠りこけてるんだか。意識を手放す最後の瞬間まで、ハチルはクインを抱いていたらしい。

死んでるんじゃないか、とふと思った。
二人で、幸せで美しい純粋な死を迎えた恋人たち。

もしそれが本当なら俺はこの二人の邪魔をしてはいけないような気さえしてくる。もちろん死んでるわけじゃない。ハチルもクインも、ただ眠ってるだけだ。疲れ果てて、死んだように眠る。二三日起きてこないなんてモンスターならザラだ。逆に言えばそれだけ眠り続けていれば体力は回復する。だからこの二人みたいなムチャクチャなプレイができるというわけだ。ため息が出る。ハチルの首に乱暴に投げ出されるように置かれたクインの白い指先には、暴走する愛をコントロールする理性も、二人の関係をより良いものにしようという向上心も何もない。

だけど、俺の心をざわつかせるのは、ハチルを離さないクインの凶悪かつ美しい指先じゃなければ、愛を吐かせようと強要する赤い唇でもない。彼女がそこまでしてしがみ付いていたいと願う理由。

まるで死んだように眠る静かな姿。何も言わず、ただ穏やかで、忌々しさすら感じる。心の奥でそっと、めちゃめちゃにしてしまいたいと思ってしまう。手を伸ばして、ハチルの頬に触れた。深い眠りの底にいるその証拠に、彼はぴくりともしない。それが余計俺の頭の中に曖昧な残響として残る幽霊の姿を反響させた。俺はこういう顔をした奴を、一度だけ見たことがある。こんな風に青白かった。棺桶の中に入って、黙りこくったまま何も言わない。あの時も眠ってるだけなんじゃないかと思った。死んでるとは思えなかった。あの夜の、綺麗な顔。一生忘れないと誓った顔。

静かに閉じた目元も、緩やかに下った口角も、青白い肌も、
見ろよ、キャサリン。
あの夜のお前とそっくりだ。

ガッと突然乱暴に腕を掴まれて、俺はすぐにハチルから手を放した。
見れば俺の腕を掴んでいるのはクイン。口元は乾いた血で汚れてる。美しい黄緑色の瞳の中で、俺に怒りの炎を燃やして。
ああ、我が女王陛下。そんな怖い顔で、睨むなよ。

「触るな」
「何もしてない」

おどけてそう言えば、キッときつく睨まれる。若い女に睨みつけられるなんてゾクゾクしちゃうね。心の中では軽口を叩いても、それを口には出さなかった。少しだけ怯んだことは認めよう。クインは本気だ。俺にだって解ってる。ハチルの時だけ、彼女はこうやって本気の目をする。

「あたしのものだって何度言わせる? いい加減あの女の事なんか忘れろ」
「忘れられないのが初恋ってもんだぜェ、お嬢にもわかるでしょ」
「自分で喰った事は忘れられるのに?」

思いもよらない言葉を嘲笑気味に吐き捨てられて、俺は一瞬言葉に詰まった。
固まった俺を見て見下すように鼻を鳴らしたうら若き女王の醜悪な態度に対する怒りを、大人の俺は溜息に似た深呼吸をしてどうにか飲み込んでみせる。

「なァエディー、俺は」
「その名前で呼ぶんじゃねえ。もう子どもじゃない」

食って掛かる女王陛下の横暴な態度にげんなりする。
彼女はいつも頑ななまでにハチルと彼女自身の関係の中から俺を排除しようとする。無駄だ。そんなの。ハチルの中にはキャサリンがいる。キャサリンの亡霊がいる以上、俺はハチルと繋がり続ける。

「別に取り上げようとしたわけじゃない。ちょっと懐かしさに浸ってただけだろ」
「ついでに一口食わせろか? お前は信用できねェ」
「悲しいねェ、俺ってそんなに信用ないんだ」

わざとらしくめそめそと眉毛を下げてみれば、女王は腹立たしさを隠そうともせずに乱暴な舌打ちを繰り出した。バレてるなァ、と俺は心の中でこっそり思う。
小さい頃から疑り深い奴だった。自分で決めたものしか信じなかった。唯一信じたその少年が自分を裏切った時、彼女の世界は崩壊した。

「キャサリンは死んだ」

俺を睨みつけ、ぶっきらぼうな声で、子供染みた女王陛下は言う。

「お前が喰ったんだ」

ざまあみろ、と続けそうな勢いで、彼女は笑った。
別にお前に今更そんなこと言われたって、俺は痛くも痒くもない。
彼女が死んだのはもう何年も前だ。その死を受け入れられないほど俺は子供じゃない。
俺が今心の奥で理解できない何かによって苦しめられているとしたら、それは彼女のことを俺以外の誰かが知ってることだ。

俺は溜息をつく。クインはあの頃と変わってない。
姿形は大人でも、この子の心は、幼い頃のまま。ハチルに裏切られたと信じてやまない少女。傷を負い、泣きながら、それでもたった一人の人間を手に入れることだけに妄信的にのめり込んだ。

若い頃の俺と同じ。
その俺は、結局彼女を手に入れられなかった。

「でもハチルは生きてる」

俺は溜息とともにそう呟いて、ぐちゃぐちゃになったままのハチルの頭をなでた。顔は白くても、すぐそばで耳をすませば、小さく寝息が聞こえてくる。俺がコイツにどんな想いを抱えてるか、女王陛下、お前みたいな小娘に分かるわけがねェ。だけど、あえてお前には忠告しとくよ。お前よりも俺のほうが、ハチルとのつながりはずっと深い。

「お前こそ忘れるな。俺がどんだけこの顔に腹ァ空かせてるか」

ハチルを喰いたいと思う気持ちなら、お前にだって負けねェ。
その言葉を聞くなり、クインはますます不機嫌そうに俺を睨んだ。
その瞳が本気なのは分かる。それでも言葉にできない領域で、俺とハチルのつながりを消すことは出来ない。

この世界で、クイン、お前だけがハチルと二人っきりになることなんてできないんだ。
それを可能にする方法はたった一つ、お前も俺と同じ道を辿ること。
惨めで、何も満たされない、一番最悪の方法を。

賢い我らが女王陛下が俺の言葉の意味を理解した証拠に、眉をひそめたクインの細い腕が、乾ききったシーツを握りしめて皺を作った。

「ま、せいぜい大事に齧ってろ」

俺はそう言うと踵を返して二人に手を振った。
彼女たちからは決して見えない角度で、なんだか自然と笑えてくる。

大人げないのは俺も同じだ。
未だに俺は、こうやって、キャサリンに固執し続けているのだから。
その俺がクインに口出しするのは要するに、きっと俺も彼女にハチルを奪われたくねェと、心のどこかで、まだみっともなく思い続けているからに違いない。