4’33”

僕らは神さまに見捨てられた。
キッチンにはクッキーも紅茶もない。
この世にはもう楽しみと呼べるものが何一つ残されていない。
お庭の池の上を、夏から取り残された、ちょっと寝ぼけた風がゆるゆる通って行くだけ。

僕はキッチンに居たはずの緑露ちゃんを探して家中の小さなドアや大きなドアを全部開けたり閉めたりしていたけど、
結局どの戸棚にも引き出しにも隠し扉の中にも緑露ちゃんが居ないことがわかると、黙って一人、ソファーに沈んだ。

何の音もしない。とても静かだ。
重たいぐらいの沈黙。 ぺちゃんこにされそう。

僕はソファーに置いてあったクッションを抱きかかえて、ぎゅっと握りしめた。
静かすぎて、心臓が、ドキドキしてきた。
透明な窓ガラスの向こうから、何の音かも分からない、さわさわ言う音が聞こえるだけ。

気付けばどこからともなく、聞こえているようで聞こえないようなボンヤリした音が、
空気に溶け出すように濁って聞こえる。
これがいわゆる神経系が働いている音なのか、血液が流れている音なのか、
耳の中の音なのか、脳の中の音なのか、僕の幻覚なのか、
僕は音楽家じゃないからわからない。

神さまに捨てられたんだ。神さまに見捨てられた。
僕が眠っている間に、きっと世界はそっくりそのままどこかへ移されて、僕だけがここに取り残されちゃったんだ。

何も聞こえない。
聞こえるのは、僕が息をする音。僕だけの音。生々しくて気分が悪くなりそう、ひとりぼっちだ。
急に息苦しくなって僕はお腹をクッションで押さえ込んだままもっともっと背中を丸めて小さくなった。

僕はだんごむし。
誰からも必要とされなくなって、どんどん小さくなって、小さく小さくなって、
誰の目にも見えないぐらい小さくなって、こっそりこの世から姿を消す。
神さまに見捨てられた子どもたちは、だんごむしになるのか。
こうやってぎゅっと自分で体を抱きしめて、どんどん小さくなるのか。

この世界の本当の姿。必要とされないものは、消える。
目のないお魚だ。暗闇を泳ぐ深海魚。
目も使わなければ無くなる。要らないものは無くなるのが当たり前。

「光がないなら、自分で光れば?」

無理だよ。光るようにできてないんだ。僕の体は。

「どんなものだって光を生み出すよ」

目をこすったら、目の前にハチコがいる。
ぼやけた輪郭で、暗い部屋の中で僕のほっぺたを触っている。
なんだ、夢だ。一人ぼっちじゃなかったんだ。
ハチコの指がつんつんとほっぺをつつく感覚が、寝ぼけた頭に伝わってくる。
やめてよ。眠たいんだから。僕は眠りたいんだ。起こさないで。わかってるくせに。

「口を開けて鯉壱」

ハチコが言った。僕は薄目を開けて彼を見る。暗くてよくわからない。
寝ぼけてるんだ。ねえ、僕は寝ぼけてるんだよ。
ハチコなの? ほんとうに? 本物?

「笑って」

暗闇の中。静かだ。
僕の耳には二種類の音が聞こえる。
高い音と、低い音。
神経系が働く音と、血液が流れる音。

ハチコの声がする。
僕の息を吸う音も聞こえる。
ハチコが僕の頬をなでて、小さく首をふる音も聞こえる。

「神様を信じてるんだろ。神がいるなら、必要ないものなんてこの世に作ったりしない」
「必要性も、自分の居場所も、光も、簡単だ。創造しろ。神様はお前なんだ」

聞こえてるよ。

「お前はいつも考えすぎる」

聞こえてる。

人間は無音状態にはなれない。
耳には穴が開いていて、いつも何かの音が聞こえる。

目を覚ましたら、ハチコはいない。緑露ちゃんもいない。クッキーも紅茶ももうない。
お庭の池の上を、夏から取り残された、ちょっと寝ぼけた風がゆるゆる通って行くだけ。
とても静かだ。重たいぐらいの沈黙。
だけど無音じゃない。僕には色んな音が聞こえる。

ドアの向こうから、聞こえるか聞こえないか分からないぐらいの小さな寝息。
僕は握りしめていたクッションをどけて、寝ているハチコを起こしに行った。