その日ドアがそろりとあいて、俺がベルの音に気づいていらっしゃいませを言う前に、彼は俺の目の前のカウンター席によじ登ってきていた。ねえねえツユキくん。ちょっと大変なことになっちゃった。深刻そうに眉を下げて見せる割に、鯉壱さんの声はどこか楽しげだ。
「大変なことって?」
聞き返すと鯉壱さんはわざとらしくあたりをきょろきょろ見回して、俺に手招きをする。カウンター越し、そっと耳を近づけたら、鯉壱さんの手があたってひんやり冷たかった。こしょこしょ話ってこんなに耳がくすぐったかったっけ。肩をすくめて笑いだすのを我慢していた俺だったけど、鯉壱さんがためらいがちに呟いた言葉には、もっと笑いたくなる。
「怒らないでね、ツユキくん。僕たち、ハチコを吸血鬼にしちゃったんだ」
吸血鬼?と聞き返したら、鯉壱さんは真面目くさった顔でしーっと唇に指を当てた。鯉壱さんがこれでもかってぐらい声のトーンを下げて話すので、俺は彼の方にできるだけ耳を近づけなくちゃいけなかったけど、二人の秘密の会話みたいで、それもなんだかワクワクする。
「友達の図書館で、禁書の棚をあさってたんだ。秘密だよ。それでその中に、人を吸血鬼にする方法を見つけたんだよ。面白そうだったから、試しにハチコを吸血鬼にしてみたんだ」
どう聞いても信憑性のかけらもない話だ。俺は笑い出したくなりながら、それでも、そうなんですか、と真面目な顔で答えた。鯉壱さんは深刻そのものの顔で俺を見て、ため息を付き、先を続ける。
「僕も最初はね、信じてなかったよ。でもね、ツユキくん。ハチコ、ほんとに吸血鬼になっちゃったんだ。あの本がすごいのか、緑露ちゃんが最後に加えた隠し味がスゴイのかわからないんだけど、とにかく、なっちゃったんだ。しかも昨日の夜、僕らのお家から逃げちゃって、どこにいるかわからないんだ」
しゃべっているうちにめそめそしだした鯉壱さんを見つめながら、鯉壱さんと緑露さんならやりかねない話だな、とぼんやりおもう。禁書のページをめくる鯉壱さんも、お鍋によくわからない材料を入れる緑露さんも、はっきりと思い浮かべてしまえるぐらい、あの二人ならありそうな話だ。でも、俺はちゃんと知ってる。今日はハロウィンだ。鯉壱さんたちったら、それを知ってて俺をからかってるんだ。俺は、ハチコ〜としくしくやりだした鯉壱さんにミルクティーを出してあげながら、きっと大丈夫ですよ、となるべく優しい声を出した。
「もし俺のとこに来たら、ちゃんと捕まえてあげます。吸血鬼になっても蜂散さんは蜂散さんでしょ?誰かに暴力振るうようなモンスターにはなりませんよ」
「もし来たら教えてね。僕らもう二度としない。治す方法もわかってるんだ。それから、ハチコにおひさまの光を当てないでね。消えちゃうかもしれないから」
不安げな声を出して、鯉壱さんはまるで大事にしているペットを心配するように言った。わかってますって。笑いながらそう言って、じゃあよろしくね、と店を出る鯉壱さんの背中を見送る。来た時と同じようにそろりとドアを開けた鯉壱さん、ちらりと俺の方を振り返ってまたすぐ視線を落とすあたりがどうも怪しいけど、でもそんなおふざけだって可愛いものだ。
店にかかったカレンダーの、31の文字。そういえば今晩ハロウィンパーティーをするって、鯉壱さんに言うの、忘れちゃった。