HERO

オーキッドがその地獄に足を踏み入れたとき、俺は輝かしい戦績にまたひとつ積み上げられた栄光を噛み締めながら、仕事終わりの休息に一服やっていたところだった。
血まみれのキャスター付き回転チェア。ぐるぐるぐるぐる。足を投げ出し、床を蹴って後ろに移動すると、キャスターが床に赤い線を引く。オーキッドは椅子に座る俺を見、床にひかれたラインを眺め、辺りの惨劇に顔をしかめてから、子どもでもこんなに汚さないぞ、と忌々しそうにほざいた。俺は笑いながら煙草の煙を吐き出す。

「お前の子どもはお絵描きにそんなにたくさん赤い絵の具を使うのか?」

全部掻き集めて持っていくと良い。お前の大事な1人娘の高等教育に、命の重みを知る機会を与えてやれ。人は簡単に死にます。命はあっという間になくなります。その血はステキな画材になり、きみのような可愛い子どもの手によって、アートになります。もしくは正義の手によって。床に描かれた絵画をご覧ください。回転チェアのキャスターを使用し、人間の血液で描かれた作品。タイトルは、そうだな、「人生」。
げらげら笑う俺にオーキッドが怒鳴る、「だまれヴィンセント」
命の再利用。良いじゃねえか。どうせ全部捨てられるんだ。利用できるものは利用すれば、良いじゃねえか。そして可愛い子どもたちは正義の力を知る。ああ、ぼくたち、悪いことしたらこうなるんだ。

オーキッドは煙草をふかす俺の目の前を、そこに広がる血溜まりの中を歩いて、真ん中に浮かぶ冷たい死体を見下ろした。オーキッドが歩くたびに足音がぴちゃぴちゃと音を立て、ヤツのキレイに磨かれた革靴にすがりつくように跡を残す。家に帰って、こいつの帰りを待つ幸せな家族に、この叫びをどう説明するだろう。こいつのステキな革靴を磨く顔も知らない嫁に、俺は心底同情する。

「居場所は分かったのか」

酷く低い声で、唸るようにオーキッドは言った。白い煙がもわもわと俺の頭の中に立ちこめていて、俺は酷く気怠い気分だった。

「さぁな」

俺はブーツの染みをこすりながら言う。とれねえな、と思いながら言う。俺のブーツは赤い染みだらけの黒いブーツ。顔を上げれば、オーキッドもその足に同じ染みを作っている。オーキッド、お前の嫁に聞いてくれ。この忌々しい染みはどうやったら取れる? オーキッド、お前はどうやって消してやがる? あとかたもなく、まるで最初からなかったみたいに。

「俺が着いた時は拳銃をくわえてたんだ。俺は止めろって言ったんだけどな」

オーキッドが俺を睨む。俺の嘘をこいつはいつも歯ぎしりするような顔で聞いている。俺に不満があるのだということを明確に表す。隠そうともしないで俺を敵意で持って睨みつける。それでも言葉にはしない。そこがオーキッドの賢いところだった。ただ黙って聞いていて、文句を言うことはない。こいつは俺に正義を語らない。

「…お前はイカレてる」

ぼやいて、オーキッドはチーフに連絡を入れた。被害者の居場所は不明。生死の確認もとれません。俺が着いた時点で、もうすでに。ヴィンセントがクズなので、と言いたげな顔でオーキッドは俺を見つめていたが、最後までそれを口にすることはなかった。俺は仕事熱心な彼を、ある種軽蔑のまなざしでもって眺める。イカレてんのはどっちだ? オーキッドの正義は、完全に社会と組織の中にある。真面目で優秀な優等生。賞賛されるべき模範生。いい子ちゃん。チーフのお気に入り。完璧で、素晴らしい英雄。俺にとっちゃ、お前のほうがイカレてる。

「チーフがお前に会いたいそうだ」

言葉にしなくても、俺に対するオーキッドの悪態と憎悪はチーフに伝わったらしい。俺はわざとらしく肩をすくめ、また緩やかに床を蹴った。灰色の床に赤いラインが引かれ、俺とオーキッドの距離が少し遠くなる。

「いますぐ帰れ。後始末は俺がやる」
「そうしてくれ。俺は疲れた。目の前で脳味噌ぶちまけられるのは何度見ても強烈だからな」

あの瞬間は強烈に興奮するからな。と、俺は心の中で付け加えておく。
今まで動いて呼吸して喚いて泣いていたものが、急に動かなくなる。その一瞬で全く別のものになる。動かないし喚かない。俺の目の前で劇的な変化が起こる。俺が動かす指のほんの些細な動きで、それは起こる。その瞬間に居合わせる。目撃する。非現実であって、ありふれているもの。死。それはこの上なく美しい。その美しさを積み重ねて、俺はヒーローになれる。その一瞬が俺を最高に興奮させる。死。俺は生きてる。

オーキッドは何も言わずに、立ち上がる俺を見つめた。きっとその脳味噌で、始末書の書き出しを考えてんだろう。ヴィンセントは英雄か否か。ヴィンセントは人を殺したが、それは正義か否か。ヤツには分からない。誰にも分からない。この街の正義はそうやって大きくなっていく。アホな市民どもが何も知らず、安心して眠っている間に、正義は執行される。俺はヒーローかもしれないし、殺人鬼かもしれない。そうは思っていても、オーキッドはチーフにこう報告せざるを得ないだろう。ヴィンセントは凶悪犯を退治し、市民の安全を守った。犯人の人権は守らなかったが、とかなんとか書くかもしれないが、もちろんチーフは気にしない。正義とは、そういうものだ。

ゆるゆると立ち上がり、手にしていた煙草を地面に捨てた。足でもみ消そうとした俺に、オーキッドがため息をつく。

「持って帰れよ、ヴィンセント」

ヒーローには厳しい条件がたくさんある。第一にポイ捨てをしてはならない。第二に、血で遊んではならない。第三に、悪を憎んでも、人殺しに喜びを感じるのはいけない。
俺はヒーローだ。にやりと笑って足下の煙草を拾った俺は、オーキッドにウィンクをしてその場を去った。

見えなければ、無かったのと同じにできる。
正義の実行。ヒーローに許される権限。
正義の代償。平和に捧げられる犠牲。

煙草の吸い殻は、オーキッド、お前のデスクに捨ててやる。