図書館へ行こう1

吐いた息が白く空を漂ったとき、なんだか酷くめまいがした。 俺の隣で、鯉壱はのんびりあくびをして、その右手では自分のしっぽが積もった雪に触れて冷えてしまわないように、しっかり先っぽを抱えていた。

「まだつかない?」
「もう少しだよ」

 文句を言う鯉壱を宥めながら、俺もたまらず身震いする。寒いな、と、何度目かわからない同じ言葉をつぶやく。鯉壱は項垂れて、半分雪に埋まった自分のスノーブーツを、重たそうに引き上げているところだった。雪がバラバラと落ちて、鯉壱はまたゆっくりとその足を雪の上に乗せる。ずずっ、と重たい音を立て、彼の小さな足が白に沈んだ。

「見て! 白い足跡。僕らのしかないよ。僕ら今、道をどんどん作ってるんだ。ハチコ、道に迷った?」
「大丈夫。迷ってないよ」
「モンスターは雪の中でも迷わないって本で読んだことがあるけど、本当なんだ…」
「俺は迷ったことないよ。鯉壱が俺を迷わすことはあるけど。クッキーがどうとか、占いがどうとか言って、俺の言うこと聞かないだろ?」
「そっか!」

 けらけらと楽しそうに鯉壱は笑って、左手をコートのポケットに突っ込んだ。チョコがあるよ。食べる? 俺が返事をする前に、鯉壱は取り出したちいさな塊の銀色の包み紙を丁寧に破いて、自分の口に入れた。鯉壱は相変わらず自由で気楽な子供のふりをする。俺はお利口さんな彼の隣で冷たい外気にやられている大人の役。俺はスズメバチだ。そもそも冬の間は冬眠してるはずなんだぜ、なあ、鯉壱ちゃん。

俺はあくびをかみ殺しながら辺りを見渡し、この悲惨な状況を見つめた。春だと思って出てきたそばからこの有様だ。三日三晩降り続いた雪が、今目の前であたり一面を真っ白に染め上げている。何から何まで雪の重みを吸ってがっくりうなだれていた。窓からこの景色を見た時、水槽の底にいた俺はもうダメだと思った。これだから春は嫌なんだ。雪なんて大嫌いだ。冷たいし、寒いし、とにかく生体活動ができなくなる。スズメバチはとことん雪に弱い。そしてそれは、我らが女王陛下も同じ。テーブルでのんびり編み物をしていた緑露に帰る、と短く告げたら、待って!と短く悲鳴をあげたのは鯉壱だった。ドアの奥から雪だるまみたいに着膨れした鯉壱が現れて、「森へ行く前に、僕の道案内をして」と、毛糸の帽子をかぶったのだ。

「で、どんな本なの」
「なにが?」
「借りた本。例の図書館だろ?禁書の棚があるっていう」

 すっとぼけた声を出す鯉壱に、俺は彼が背負っていた小さなリュックを顎で指して聞いた。その中にいくつか本が入っているのは知っていた。鯉壱は思い出したようにああ、とぼやくと、危険な本なんだ、と演技めいた声で眉をひそめて言った。

「死後の世界についての本と、お星様の作り方の本だよ。それからチョコレートを使ったレシピの本も」
「そのチョコのレシピは誰か殺したの?」
「暗殺の時に役に立つ。このチョコは食べた人に銃弾を吸い寄せるパワーがあって、それでどこかの国の大統領が暗殺されたんだ」

 確かフライドチキンみたいな名前の大統領。と鯉壱は言って、くしゅん、と一つくしゃみをした。その拍子に鯉壱が巻いていたピンクのマフラーが鯉壱のなで肩からだらしなく滑り落ちたので、俺は少し立ち止まって、着膨れしてもたつく鯉壱がマフラーを首に巻くのを手伝ってやった。

「こんな寒いときにわざわざ返しに行かなきゃいけないのか?」
「また次の大雪が降る前に新しい本を借りに行きたいんだ。ゴッホ流絵画術」

 耳のちぎり方が書いてあった、と鯉壱はつぶやいて、頭の横で指をひねるような真似をした。他に特筆すべき絵画術あるだろ。想像するだけで気持ち悪い。さすが禁書の棚、聞いてるだけでおそろしく教育に悪そうだ。緑露は知ってるのか?と口を尖らせそうになりながら、闇落ちした鯉壱が夢にでてくるところを想像する。緑露ちゃん!星がぐるぐる回ってる!太陽が燃えてる……!!!

 俺がくだらない想像をしながら顔をしかめている間に、突然鯉壱が叫び、尻尾を抱えたままの右手で一本の木を指差した。

「あの木見覚えがあるよ! もうすぐ図書館だ」

鯉壱の指差す木には、もう葉はついていなかった。かわりに小さなイルミネーションライトが大量に引っ掛けてあった。
周囲の暗い雰囲気と打って変わって、ずいぶん浮いた飾り付けだ。森の入り口を少し入ったところ。テリトリーとしてはもう、リヴリーの世界じゃなかった。

「こっちだよ!」

俺は顔をしかめて、走り出そうとした鯉壱の手を強く引いた。その拍子に鯉壱は抱えていた尻尾を落とし、不思議そうに俺を振り返る。

「ゆっくり行こう。鯉壱。ここにはモンスターがいる」
「モンスター? どうしてわかるの?」
「俺が迷わないのと同じ理由」

俺は鼻をならすと、鯉壱の手を握りなおした。

「離れるな。わかった?」

鯉壱はおとなしく頷いて、俺を見上げる。木の後ろには、白い雪に埋もれるように、古い館が立っていた。黒いラインの入った大きな館。鯉壱は俺の後ろで小さく呟く。ここがそうだよ。

「この中が図書館なんだ。いつも入ってもなんともないよ。受付の人は普通にリヴリーだし」
「その人以外にリヴリーを見かける?」
「ううん…たまに女の子とか、きてるよ。確か、ミニョンの子」

 本当に? 俺は首を傾げて鯉壱を見る。こんなにモンスターの匂いが強いのに、リヴリーにはわからないものなのか。スズメバチではなさそうだな、と思って、余計顔をしかめた。鯉壱が普段一人で大丈夫なら、俺が行かない方がいいだろうか。のこのこスズメバチが入っていって、何か刺激したりしないだろうか。ぐるぐる思ううちに自然と足が止まっていたのか、鯉壱の方は俺を見上げたまま固まって、心配そうにリュックの紐を握りしめている。
 僕、そんなに危ないところとは知らなかった…と小声でぼやくマダラカガの頭をなでて、まあ俺がいるから大丈夫だよとなだめて見せる。ここまで来たらもう相手にもバレているだろうし。正直、大丈夫かどうかは相手の出方によると思っていたが、そこは口にはしなかった。

「じゃあ行こうか」

鯉壱はひとつ肯くと、重たい鉄格子のはまった窓と窓の間にある、巨大な扉の取手に手をかけた。