走り出した時、彼女の靴が片方だけ脱げた。自分の足から靴が脱げたら気づかないはずはないのに、それでもキャサリンは走り続けることに一瞬の躊躇もしなかった。反射的に手を伸ばして、指先で彼女の薄くて柔らかくて気持ちのいい靴を捕まえる。キャッチできたことにホッとした。彼女は裸足で、俺のすぐ前を笑いながら駆けていた。楽しくて楽しくてたまらないみたいに、笑い転げながら走り続けた。走るのに夢中で振り返らない。羽も生えていないのに、信じられないくらい軽やかに走っていく。なんだかその姿に不安になって、俺は彼女を見失いたくなくて、思わずその小さな背中を追いかけた。
「月が出てる」
丘のてっぺんまで登って来た時、走り通しだったキャサリンはようやく立ち止まり、一言だけ、独り言のように言った。野生児め、と肩で息をしながら、最後に登って来たキャスケットが悪態をつく。
「リヴリーのくせに、」
そう言うのが精一杯だったのだろう、キャスケットはその後を続けられず、ばたりと背中から丘の上に転がった。息が切れているのは彼だけではない。俺も自分の呼吸を整えるのに精一杯で、月を背に夜風に目を閉じる彼女に声をかけるのもままならない。子鹿のように跳ねる娘だとは思っていたが、男二人を相手に鬼ごっこをして笑顔でいるとは想像以上のバイタリティだ。彼女はリヴリーで、俺たちはモンスターなのだから、その屈託のない笑顔はどこまでも能天気だと言うべきかもしれない。
「彗星!」
「…どこ?」
「消えちゃった」
突然空を突き刺すように指を立てたかと思えば、またゆるりと顔を緩める。くるくると表情を変えてみせる彼女に、俺たちは付いて行くのに精一杯。今度は向こう!と指差して、キャサリンはまた月に向かって走り出した。咄嗟にキャスケットを見た俺に、彼は一瞬だけ視線を寄越し、そのまま”さっさと行け”と手で合図をした。もうガキのお守りもうんざりだと言いたいのだろう、お前がちゃんと面倒見ろという無言の圧力を背中に感じつつキャサリンを追う。大きなツノを持つリヴリーは丘の反対側でぽかんと口を開けながら、大の字に寝転がって月を見ていた。
「世界が全部自分のものみたいな気がする」
近づいた俺に、彼女はぽつりと呟いた。顔をよく見れば、心なしかその頰は赤く染まっているようだ。丘まで一気に走ったせいか、それとも走る前に飲んだぶどう酒のせいか。ディナーのデザートを食べていた彼女が、あれを飲んだ瞬間に突然家から飛び出して行ったので、俺は面食らって後を追ったのだ。俺と同じように混乱しながらも、放っておけとキャスケットはぶっきらぼうに言った。しかし俺がキャサリンに続けば、なんだかんだでついて来た。結局そういうところがある。
「あの女、やっぱりイカレてる」と、キャサリンを追う最中、息を切らせながらキャスは言った。「ジュリアにチクってやる、優等生のヘンリーが、クソガキに絆されて、道を誤ろうとしてるってな」。
彼がそうキレ気味に吐き捨てるのを背中で聞きながら笑う。姉さんは女王蜂だ。絶対にこんな突飛な行動はしない。リヴリーってものはみんなこういう変なことをしでかすのかなと自分なりに納得しかけていたので、彼がいちいちキャサリンに対して期待し、裏切られて憤慨するのを見ていると、なんだか少し愉快で、不思議な気持ちだ。彼を見て、正しい反応はこうなのか、と思ったりもする。俺は彼女といると不安になることも多いから。突飛な行動でいちいち彼を怒らせるキャサリンのことを、俺たちは気に入っている。いや、キャスはどうだか知らないけど。
草原に寝転んで目を閉じている彼女の隣に立てば、夜風に運ばれてぶどう酒の甘い香りがする。いい匂いだ、と思う。夏の草木の匂いがする。すぐ頭の上には、細い三日月が輝いている。
「お酒弱いんだね」
「弱くないわ」
「じゃ、なんで飛び出して行ったの?」
「なんだかものすごく走りたくなったから」
くすくす笑いながら、寝転がったままのリヴリーは乱れた髪もそのままに、のんきに答えた。君は変わってる、と、出会ってから何度目になるかわからない感想を口に出す。彼女の答えも毎回同じだった。「あなただって変わってるんだから」。
「世界が全部自分のものみたいな気がするの」
キャサリンはまた繰り返して独りごち、空を見上げた。
「悲しみも喜びも、全部、今なら全部愛せる気がする。この瞬間のために、今までがあったんじゃないかなって思ってるの、今」
俺は黙って彼女の隣に座って、柔らかくて短い芝に触れ、目では彼女が眺める空を眺めた。何が彼女をそんなセンチメンタルな気持ちにさせているのかわからなかったから、彼女が今感じているものを、彼女と同じように感じてみたかった。しかしすぐに諦めた。彼女の言う世界も、喜びも、悲しみも、俺には思い浮かばなかった。だから隣で横たわっている彼女を見た。彼女の澄きとおった空色の瞳も、ちょうど、俺を見たところだった。
「言ってること、わかる?」
「足を」
焦ったそうに彼女が俺を見て、俺は彼女の質問に答える代わりに、草原に投げ出された彼女の足を取る。脱げた靴を俺が持っていると知った彼女は、その時初めて退屈そうな顔をした。
「そんなの、捨てて来てよかったのに」
「裸足で走ったら怪我するよ」
リヴリーは怪我をしたらすぐには治らないだろ。ぼやいた俺の言葉に、彼女はため息で返す。彼女に傷ついて欲しくないと俺は思うのに、当の本人はそういうことにまるで無頓着だ。
彼女の白い足に触れると、その肌がずいぶん火照っているのが分かった。す、と指先を滑らせてから、包むように触れる。キャサリンは足を引っ込めようとはしない。熱を取ろうと、足の裏へ手を伸ばし、ゆっくり摩る。かかとから、踝に。踝から、ふくらはぎに。
まだ生暖かい夜風がゆるりと吹いて、彼女のスカートが草の隙間でそよいだ。顔を上げれば、火照ったままの顔の彼女と、目が合った。
「履かせてくれる?」
彼女がゆっくりと言って、俺はただその微笑みを見つめ、その声は頭の中に甘く広がっていく。俺は目が冷めるような気持ちで胸の奥が苦しくなる。
布でできた銀色の靴は柔らかく、履かせれば何故脱げたのかわからないほど、彼女の足にぴったりだった。洒落た靴ではない。そのぺたんとした銀色の靴は、森の中を動き回る彼女を守って傷だらけだった。だからこそ美しいと思った。俺は自分の手で履かせたその靴と、その靴を履いた白い足を、少しの間黙って見つめた。
世界が全部自分のものになっているような気持ち。
全ての喜びも、悲しみも、全て愛して、受け入れて、これが自分なんだと、叫んで、走りたくなるような気持ち。
キャサリンの言葉を繰り返す。彼女と同じ気持ちになりたくて、その意味を想像する。どうやって判断したらいい。君が嬉しいなら俺も嬉しいけど、でもそれが悲しみになる時が来るとしたら、そう思った瞬間にはもう、感情は不安に変わっている。
俺は迷うよ。どうしたらいいかわからなくなる。自分の気持ちは感じないようにして生きてきた。
女王陛下の右腕として、彼女を守る忠実な近衛兵として。どんな時も彼女の命令を疑わず、遂行するのが、俺の、俺であるための存在意義だ。
迷っちゃダメなんだ。強くなきゃダメなんだ。ただひたすら女王蜂のために、守るべきものを守るために、一切の迷いを捨て、躊躇なく、敵を討てるように。俺はそういう風に生きてきたんだ。
それなのに、今、俺は、君に対する自分の気持ちを知りたがってる。
彼女の横顔を見る。流れる星を眺める瞳が、光を集めて瞬いている。
君が森の中で俺を見つけて、ジャムの蓋を開けるように頼んで来た時の顔を、俺はずっと頭の中で繰り返してる。君がどんな気持ちだったか、俺がどんな気持ちだったか、はっきりとこれだと言葉にできないけど、どうしても覚えておきたい。
だから今日の日のこともきっと忘れない。君の足に触れた時の感覚を、その体温を、足の小ささを、君が少しだけ頰を緩めた、その表情を。
これから先、君が見てる世界を、一緒にそばで見ていたい。
キャサリン。君に伝えたくない。でも、伝えられたらどんなに楽だろう。
君みたいに強くない。でもそうだ、君の言葉を借りるなら、多分、これが俺だ。
「ねえ!踊ろう!ハルくん」
突然キャサリンがそう言って立ち上がり、俺は呆然とその姿を目で追った。夜空に浮かぶ月を背景に、彼女は楽しそうな顔で、俺の頭をまるで犬か何かをめちゃくちゃに撫で回すときのように撫でた。俺を立たせようと無理やり手を取るキャサリンに、俺は心配と、戸惑いの、半分ずつ混ざった気持ちで呻く。
「キャサリン、酔ってるんだよ」
「酔ってない!わたし今、燃えてるの!ものすごい勢いで燃えている。落下中の彗星よ。ある場所を目指して落ちてるの。でもどこに落ちるかわたしにも分からない!そして、たどり着く前に燃え尽きて死ぬかも。そうだとしても、”今”が楽しいの」
君はすでに眩しいよ、俺にとっては暴力的なまでに。
「…無敵だなぁ」
腑抜けた俺は溶けた笑顔で、少女につられて微笑んだ。止められない。星が燃えていることを知っているからといって、一体誰が星が死ぬのを止められる。
踊ろう、と催促を繰り返す彼女に手を引かれて、重い体が引きずられるように動く。火を点けたのは俺だ。違う世界に引きずり込んだ。彼女が住む世界とは別の世界に彼女を招き入れてしまった。そしてこの俺自身も、もう戻れない。
「”今”しかないの」
自分自身に言い聞かせるように、あるいは、俺に言い聞かせるように、キャサリンはそっと囁いた。
死んだって構わないって、彼女は思ってる。きっと、彼女が死ぬなら俺の責任だ。それでも俺は、俺は、燃えゆく君が見たいと、心のどこかで思っている。
「踊ろう」
「君が望むなら」
心に残っていた罪悪感が、小声でそう言った。それを聞き取った耳のいい彼女は、勘違いして、照れ臭そうに顔を緩めた。彼女が死ぬまで一緒にいようと、彼女が死ぬ時俺も死のうと、そのとき俺は、そう思った。