沈んだり上がったり

 水の中に沈むのが好き。ひんやりと冷たい波が全身を包んで、ゆらりと肌を撫でるのが好き。水中で聴こえる水や泡のぼこぼこ言う音が、耳をぼんやりくすぐるのが好き。上の方できらきらと輝く光が好き。一瞬一瞬変わる、美しい景色が好き。水の中でじっとしていると、そのうち僕を包むものが全てなくなって、何もかも忘れて、水の中に溶けていく。ゆっくり揺れる黄緑色の水草や、その陰で様子を伺う魚と一緒になるんだ。それが最高に気持ちがいい。だから時々、僕は庭にある池に沈む。

 「マダラカガは湿地を好むけど、水の中にいるやつは珍しいよな」

 水面に頭だけ出すと、岸辺にいたハチコがそう言った。いつから居たんだろう。微笑んだ彼を見て、待ってたのかなとなんとなく思った。
 ハチコはスズメバチだ。つまりモンスターで、僕らリヴリーが主食。でも、僕はちっともハチコが怖くない。透明で大きな翅も、黄色がかった黄緑色の瞳も、ギザギザの歯もあるけど、彼は僕をバラバラにして食べようとしたことはない。毒針で刺したことも、巣に無理やり連れ帰ったこともない。ただ彼は、僕の前に気まぐれにふらりと現れて、こうやって話しかける。

「鯉壱、これ取りに行ってたの?」

 ハチコは僕のツノに引っかかっていた水草をつまんで見せる。どうやら上がってくるときに引っ掛けたようだ。ハチコの冗談が面白くって、ちがうよ、と吹き出すように笑えば、彼は優しく微笑んで、よかった、と独り言のように言った。

 水の底でぼうっと上の方を見上げていると、魂だけが水面へ浮いていくような感覚になる。ちょうど鳥が空を飛びまわるみたいに、僕の体から魂が離れて水の中を移動する。でも僕の重たい体は水の底に沈んだままだ。一番深い水槽の底で、僕はいろんな生き物が、頭上を通り過ぎて行くのを見てきた。その中でも、ハチコは特別だ。オレンジと黄色、それから黄緑。僕の好きな色が、水面に揺らいでいたから、僕は水面から顔を出した。

「出てこいよ。もう一時間近くそこにいるだろ」

 そんなに前から。気づかなかったな、と僕がぼやいたら、今度はハチコが笑う。「魚になっちゃうぞ」なんて冗談交じりに言うから、僕は水の中にいるときは何にでもなれるんだよ! と訴えた。まだ頭以外は水の中だから、80%くらいは魚だ。すい、と尻尾を水の中で動かして見せる。この尻尾のおかげで僕は水中でも結構素早い。そうだ、ハチコに見せちゃおうかな。水の中の僕がどれだけ早いか。もしかしたら、ハチコより素早くて、びっくりするかもしれない。

「怪物の森の奥にはでっかい湖があって、金色の魚が住んでるんだ。見つけたら、願い事を叶えてくれるって言われてる」

 ハチコは僕のおでこに手を伸ばすと、顔に張り付いてた髪の毛を少し整えながらまた独り言みたいにつぶやいた。僕は泳ぎ出そうとしていたことも忘れて、おでこの方を見上げる。彼の指がなぞった髪は、視界の端で太陽の光を反射した。キラキラ光って、透明な水の雫は重力のまま落ちてくる。そのまま雫が目に入ってきそうだったから僕は大人しく目を閉じた。

 金色の魚がまぶたの裏で泳ぐ。普段は湖の深いところにいる。冷たくて暗い場所かもしれない。でもきっとそこが落ち着くんだ。最高に気持ちいい場所。たまに外の景色を見たくなって、お日様の光を目指して水面の方まで上がってくる。きっと流れ星みたいに速いから、キラっと光ってすぐ消えるんだ。その一瞬の、奇跡みたいな輝きを水面に見つけた幸運な人が、岸辺にひざまづいて祈る。ああ、でも、怪物の森の奥の湖だから、祈るのはハチコみたいなモンスターかな? そんなおとぎばなしがあるなんて、モンスターって意外とロマンチックだ。それをわざわざ口にするハチコも。

「願いを述べてみよ。ただし3つまでね」

 僕は王様になった気分で言った。金色の魚はたぶん喋らないだろうけど。僕の言葉に笑ったハチコの指がまた、僕の顔の雫を拭ってそっと言う。

「もう叶えてくれたよ」
「…いつ?」
「ここで最初に出会った時に」

 僕が首を傾げてる間に、ハチコはそう呟いた。まつげに乗った滴と、太陽の光で見えづらかったけど、なんとなく笑っているように見えた。ハチコがこういう顔をする時、僕はなんだか嬉しくなる。僕をからかって笑わせようとするときも、僕のクッキーを勝手に食べた後、許してって笑うときも、ハチコはこういう顔をする。
 そうか。僕たち、初めて会ったときも、こうやって池のそばでおしゃべりしたよね。オレンジと黄色、それから黄緑。僕の好きな色が、視界のはじっこに、ゆらっと現れたんだ。

「緑露がパンケーキ作ったってよ。食べようぜ。それともまたお腹一杯か?」
「もちろん食べるよ!」

 いじわるを言うハチコに、僕は口を尖らせる。緑露ちゃんが作ってくれるパンケーキを、食べれないなんてことが許されるはずないよ!  文句を言えば、ハチコはそうだよなと笑って右手を差し出した。白い手袋の手。僕の手はずぶ濡れだけど、かまわないよね?  水に浸かっていた腕を水面から出して、ハチコの大きい手を掴む。思った通り、彼は手袋に水が染みるのを嫌がる素振りは少しも見せなかった。掴んだ手が僕の体を引っ張って、抱き寄せる。ざばり、と揺れた水面の方も未練がましそうに僕の体を引っ張ったけど、残念、ハチコの方が力が強かった。

「捕まえた」

 びちょぬれの僕を軽々と引き寄せ、抱きしめて、ハチコは心の底から絞り出すような声で言った。腕にこもる力の加減が心地良くて、僕も首に手を回す。ハチコまでびちょぬれになっちゃった、とぼんやり思う。僕のせいだ。でもそれがなんだかいい気分だったから、もっと濡らしたくて頬を寄せた。ハチコの柔らかい髪が顔をくすぐる。

「あったかい」
「ずっと水の中にいるからだ」

 文句でも言うようにハチコは笑いながら言って、僕を抱きあげたまま立ち上がった。水が体から滴っていく感覚と一緒に、重力を感じる。ハチコは重くないのかな? 水の外の世界では僕はただのマダラカガに戻る。でもマダラカガでいれば、ハチコに抱っこして運んでもらえるし、緑露ちゃんのパンケーキを食べられる。

「マダラカガでよかった」

 まぶたを閉じてひとりぼやけば、思い出したようにハチコが笑う。笑っておでこにキスをして、そのまま歩き出した。ハチコの腕の中は気持ちがいい。気持ちよく晴れた青空の下で、芝生の上にごろんと寝転がるのと同じくらい、気持ちがいい。びしょ濡れのまま、何も気にせず、疲れた体を預けられる相手がいるのが、こんなに嬉しいことだって、きっと金色の魚は知らない。
 僕はハチコがキスしてくれたおでこを彼の首のところに押し付けて、しっぽも彼の腕に巻きつけて、離れ離れにならないように、しっかり腕に力を込めた。

ぶくぶくと沈む、のリメイク。これも2019くらいからノートに眠っていたのですが、おとぎばなしのところで止まっていて、蜂散さんが鯉壱を引きあげるくだりを加筆しました。