はじまりは唐突だった。少し寒い秋の終わり頃。特に変わったことはなかった。水槽の底に吹く風はいつもと同じ。外にまで鯉壱の騒ぐ声が漏れ聞こえている。
 鯉壱は二階にある彼の部屋で、ありとあらゆる服をクローゼットの中から引っ張り出し、部屋の中にぶちまけて引っ掻き回していた。「パジャマを選んでるんだよ」。部屋の入り口に突っ立っていた俺に気づいた鯉壱が、いつもの調子で楽しそうに言う。鯉壱は目に痛い黄緑色と白いドット柄のパジャマを着て、鏡の前でくるくる回っているところだった。

「ハイ、ハチコ。元気? そろそろ冬眠するのかと思ってた」
「もうちょっと起きてるよ。鯉壱がパジャマパーティーするって聞いたしな」

 はっはっは、と鯉壱はわざとらしく笑って、盛大にぶちかますよ!、と叫びながらパジャマの山を蹴り上げた。ピンク色の尻尾が楽しげに揺れる。行儀の悪いマダラカガだ。テンションがぶち上がってる。普段ならすぐさま緑露が怪訝な顔をして鯉壱をたしなめるのに、彼女はただ座って、鯉壱がぶちまけたパジャマを丁寧に、順番に、ひとつずつたたみ直していた。緑露はいつも通りじゃなかったな。彼女はちゃんと知っていた。多分俺よりずっと、ちゃんとだ。

「これ全部着るつもりか? どんだけ持ってんだよ」

 散乱した服を抱え上げて言えば、鯉壱は俺の腕からとったシャツを自分の胸に重ねて、また鏡を覗き込む。

「好きな色がいっぱいあるから…迷ってるんだ、こっちもいいでしょ? ピンクにするか、黄緑色にするか、黄色にするか…。ハチコはどうするの?」
「パジャマ? 俺は着ないよ、だって俺は……」

 思ってもいなかった質問に、笑って返しかけたその理由を言えなくて思わず口籠る。鯉壱が不思議そうにぽかんと俺を見るから、目を伏せるしかなかった。

「俺は…」

 言い淀んだ俺の声に、緑露が顔を上げて、俺を見た。俺も緑露見ていたおかげで、彼女が寂しそうに目を細めたのがわかった。俺はどうしような。鯉壱。俺たち、これからどうしよう。ため息が出そうになるよ、全く。

「俺は、ここで待ってるよ。鯉壱が起きるの待ってる」
「そお?」

 飲み込んだ言葉の代わりに、いつもの微笑みといつもの声で、いつも通り願望を口にする。鯉壱は俺のセリフを言葉通りに受け取ったようだった。ただ眉を上げて、あっさり視線を外して、足元に落ちていた水色のワンピースを体に合わせる。鏡にふわふわ映る、金色の髪とピンクの瞳。

「フラスコの中ってどんなかな? ミルクティーを飲めるように、マグカップはリュックに入れたんだ。でももしミルクがなかったら嫌だから、それはあとで入れるつもり。あと絶対にクッキーも必要だよね? クッキーも割れないように包まなきゃ」

 物悲しさに俯く大人が二人。そしていつも通り欲張りなマダラカガが一人。状況をわかってるのかわかってないのかは不明。フラスコの中でミルクティーを飲むって? 鯉壱はいったいどんなフラスコを想像してるんだ。カプセルホテルかなんかの愛称だと思ってんのかも。ホテル・フラスコ、みたいな。

「なあ鯉壱…毎年冬眠こなしてる俺から一つアドバイスをやろう…冬眠の極意は、”ベッドに食べ物を持ち込むな”、だ」
「どうして?」
「まちがいなくデブになる」
「そんな…」

 冗談交じりに告げたセリフに、マダラカガは驚いて困ったような顔をする。その顔が面白かったから、つい小さく笑った。笑ったついでに彼の肩に手を置いて、ワンピースをひっぺがす。なんでワンピース持ってるんだよ。似合うからいいけど。

「ミルクティーとかクッキーがなくたって、寝てるだけなんだから大丈夫だよ。何も問題ない。俺だって毎回ガクッと眠って、目覚めたら春なんだぜ。一瞬だよ」
「本当? お腹空かないの? 途中で目が覚めたら?」
「大丈夫だよ。爆睡。嫌んなるくらい」

 そう、嫌んなるくらいだ。嘘はついてない。途中で起きたって大したことない。ただ眠る前が一番最悪だ。寒さと気分の悪さと不安と恐怖で俺はほとんど眠れない。ただこれは鯉壱には内緒。俺がダサいだけだから。

「第一、そんな大荷物持ち込めるのか? 全部のリヴリーが入るんだろ。荷物の制限とか、そういう大事なことは書いてないのかよ?」

 パジャマの山の中から、埋もれた封筒を手探りで引っ張り出す。硬めのしっかりした封筒の厚みと、それを閉じていた王国印の蝋の重みが、その通知の重要さを物語っている。

 全てのリヴリーたちが、研究所に引き取られる旨と、フラスコの中で眠るための準備を行うように勧告する通知。突然現れた手紙。こいつが届きさえしなかったら。

 舌打ちしそうになって、それを無理やり飲み込んだ。いいや。どっちみち、遅かれ早かれ着たはずだ。それが飲み込めないほど子供でもない。封筒を開けばそこには金色の文字で、文章が載っている。仰々しいぜ、全く。仰々しくてあっけない。拍子抜けするほど簡単に、その数字の羅列は並んでいた。俺にとってはそれが全て。俺たちと、鯉壱が、おそらく永遠に離れ離れになる期日。

「せめて枕は持っていける? 僕、枕が変わると眠れないんだ」

 ちっぽけな紙を握りしめて固まっていた俺に、鯉壱はじれったそうに尋ねた。鯉壱がいなかったら、俺はその場で封筒を握りつぶしてただろう。彼は俺の手から封筒をひったくると、金色の文字を指でなぞった。「クッキーを持ち込むなって…どこにも書いてない! さすがに許されると思う。あと枕も」

 鯉壱はそう呟くと、すでに限界まで膨らんだリュックの中に枕を押し込もうと走って行った。何を基準に「さすがに」なのか俺にはわからない。だが、無意識のうちすべり出たため息が、鯉壱の奔放さが原因ではないことはわかっていた。緑露が俺の肩を撫でる。驚いて、初めて俯いていたことに気がついた。今度は恥ずかしさでため息が出そうになる。かっこ悪いな。相変わらずめちゃくちゃかっこ悪いだろ。鯉壱だってわかってるはずだった。いつも通りな訳がなかった。俺だってわかっていたのだ。頭のどこかでは。認めたくなかっただけだ。いつも通りにしたかったのは、俺だった。

 見上げれば、緑露は優しく、でも寂しそうに微笑んだ。俺は結局、一回りも年下の緑露のそういう大人な態度にいつも救われてきた。今でもそうだ。俺たちは取り残される。彼女も同じはずなのに。「たぶん私も、ハチコと同じ気持ちです」と穏やかに、彼女は言った。

「でもハチコ。あなたは落ち込む前に、まだやらなくちゃいけないことがたくさんあるはずですわ。あなたには、友達がたくさんいるでしょう?」

 ゆるやかに告げられる口調。お前は知ってたのかな。誰も知らない場所で行われる、ポフだけが集まる集会で、風の噂で聞いたりしたのか。そういえばあいつもときどき、今のお前みたいな寂しそうな顔してた。本当は俺だってわかってたんだ。だけど俺は知ってもなお、まだ受け入れられない。

「…緑露はいっつも大人だね」
「手のかかる二人組のおかげですわ」

 彼女の大きな手が、そっと背中を押す。行ってらっしゃい、と頭の上の方で、やさしい声が言う。大丈夫。何もかもが、なくなるわけじゃない。
 緑露は俺と同じ気持ちだと言った。それなら彼女のあの声も、きっと俺と同じで願望だ。願いたいから口に出した。叶えたいから俺に言った。俺は鯉壱がいない世界を生きていけるか自信がない。俺が叶えたいのはさよならじゃない。それでも、

 鯉壱のことはひとまず緑露に任せよう。この調子ならいつまでたっても出発できない。きっと最後の方だろう。俺は鯉壱の頭をポンと軽く叩いて、言った。

「昔、違うサーバーから来たって言ったよな? 前のサーバーの奴のこと、今でも思い出すか?」
「相楽たちのこと? 絶対に忘れないよ。僕、あいつらにいじめられてたんだ。言わなかったっけ?」

 むすっとした顔で俺を見た鯉壱は、少し俺の顔を見つめて、思い当たったように、そして残念そうに、小さく言った。

「僕がハチコたちのこと、忘れると思うの?」
「わかんねーだろ、クッキーの置き場とか忘れるし」

 それはちがう、とすぐさま鯉壱が口を尖らせる。俺は鯉壱が愛しくて、笑って彼を抱きしめる。いつもと同じように。昨日や一昨日と変わらないハグを、変わらない気持ちを、今日も、明日も、ずっと。

「だから待ってる。鯉壱が起きるまで。ここで待ってる」
「うん」

 俺の背中を、鯉壱の小さな手が抱きしめる。その感覚を永遠に忘れたくないと、俺は思った。