おしゃべりなマダラカガ

「…ハチコ」

眠たそうに薄く声を上げた鯉壱が俺に向かって微笑んで、俺は口を開けたまま固まった。
ベッドの脇にしゃがみ込んだ俺が、毛布にくるまってスヤスヤ眠る鯉壱に手を伸ばしているこの状況を、静寂だけが包んでいる。耳鳴りが聞こえてきそうな静けさの中で、冷や汗が背中を伝う音が聞こえてきてしまいそうだ。
鯉壱はしばらくむにゃむにゃ口の中で何か言っている。寝ぼけてるのか。俺は少しホッとして、伸ばしかけた腕で、ぎこちなく毛布を鯉壱にかけ直した。

「僕のこと……舐めたりしてないよね?」

突然鯉壱があくび混じりにそう言うから、俺はビクッとして鯉壱を見る。鯉壱はまだ溶けそうな眼で、曖昧に、開いているんだか閉じてるんだか分からない目をゆっくり動かしている。

「…今のところは」

正直にそう言えば、鯉壱は何が面白いのか満面の笑顔であはは、と笑った。

「僕…僕、もうハチコが…諦めたかと思った…」
「なに?」

半分寝息混じりの消え入りそうな声で、鯉壱は夢見心地にぼんやりと呟く。
耳を寄せれば、鯉壱が静かに、息をする音が聞こえる。

「ツユキくんが、いるから……」

ツユキ? と問い返せば、鯉壱は目を瞑ったまま、うっすらと頷いた。

「ハチコにはツユキくんがいるから…僕のことはもう…気にならなくなったのかなって…」
「鯉壱ちゃん、それってヤキモチ?」
「違うよ…バカだなぁ…」

目を閉じたままふにゃっと笑う鯉壱に、違うのか、と少し寂しい気がしないでもない俺。
俺はツユキが好きだけど、別に鯉壱が嫌いになったわけじゃない。鯉壱のことは今でも大好きだよ。そう言ったら間違いなく「僕とも浮気するの?」と鯉壱は楽しそうに笑った。

「鯉壱だって、チョコチップクッキーとキャラメルクッキー、どっちが食べたいか気分によるでしょ」

苦し紛れの例えはひどいものだったけど、聞いてるんだか聞いてないんだか、僕はクッキーだったのか…と鯉壱はまんざらでもなさ気にむにゃむにゃ言った。電気の消えた暗い部屋で、月夜に照らされてうっすら光る黄金の髪。持ち上げればするりと滑って、俺の指から零れ落ちていく。

「待ってよ…僕はどっち…? もちろんチョコチップだよね…?」
「いや、今のは例えだよ」

首を傾げて鯉壱が真面目そうに聞くので、今度は俺が笑う。わずかに開いた眼で、鯉壱は天井をぼんやり見つめた。

「僕って…食べたらどんな味がするんだろう…」
「さあ…紅茶か…クッキーか…なんにせよ鯉壱は甘そうだ」
「僕…僕…、ミルクティー味がいいな…」

目を閉じたまま、何故だか嬉しそうにふふふ、と微笑む鯉壱はもしかしたら、ミルクティー味の自分の髪をもしゃもしゃ食べる夢でも見てるのかもしれない。
そうだとしたら鯉壱、念の為に言っとくけど、そこまで食い意地張ってる奴は例えモンスターでもそうはいないぜ。

「毒があったらどうする?」
「毒か…なんとかなるよ」
「ならない毒だったら? 僕が、ハチコにだけ効く毒薬だったらどうするの?」

俺は笑みをこぼして俯いた。全く、鯉壱は俺が出会った中で一番おしゃべりが好きなマダラカガだ。

「…初めて会った時も、お前そう言って俺にカマふっかけたよなァ…」
「あれは嘘じゃないよ。僕そう信じてるんだ。でもハチコ、僕のこと食べようとしたじゃない」
「毒の話がなかったら本当に食べてたよ」
「今も信じてる?」
「たまにね」

そうやって鯉壱が俺にその話をする時、俺の中でもその毒が本物になる。呪文みたいに、鯉壱を守ってる。俺みたいな邪悪なモンスターの牙からね。俺がもったいぶってそう言うと、鯉壱は目を閉じたまま嬉しそうにケラケラ笑った。

「…なァ鯉壱、ずっとそばにいて、何で俺がお前を食おうとしないのか。考えてみろよ。考えるのは好きだろ」
「きっと…神さまのおかげだ」
「神さまか」
「いや…緑露ちゃんの…おかげかな…」

眠りネズミみたいにゆっくりと、鯉壱は小さく口を動かした。聞いてないだろうな。そう思ったから俺はあえて言った。好きだからだよ鯉壱。失いたくないからだ。

「あの日で俺は、お前の毒にやられてる。もしかしたらもう効かないかもしれねェぞ。どうする?」
「どうしようかなあ…」

鯉壱は相変わらず目を閉じたまま、そしてやっぱり大したリアクションもしないまま、モゴモゴとつぶやいた。そして静かな寝息。寝ちゃったよ。規則的な呼吸の音に、なんだか勝手に置いてかれたような気持ちになって、どうしようもなくさみしい気持ちになる。俺がどうしてそばにいるのか、鯉壱には分からないのかな。ぼんやり、月の薄明かりに照らされた鯉壱の寝顔を見つめていると、この子が特別な理由を俺まで忘れかけそうだ。

覚えてる? 鯉壱。初めて会った時も、君はこんな風に無防備に寝顔晒してた。
モンスターの俺に。マダラカガのくせに。だから俺は君が好きになったんだ。

「…ちょっと舐めるだけなら大丈夫?」

聞こえないだろうと冗談交じりに呟いた。君の味を確かめたいから。おしゃべり好きなマダラカガは、笑って、消えそうな声で、「痛くしないでね」と言った。

「鯉壱?」

聞き返した俺に、彼は答えない。安心しきった子供みたいに、すやすや勝手に寝てるだけ。
あの時みたいに。俺たちが水槽の底で、初めて出会った時みたいに。
鯉壱は最初っから、モンスターの俺なんか、全然興味なかった。

「鯉壱」

唇に落とそうとしたキスを、少し考えて、おでこにした。
鯉壱は相変わらず、むにゃむにゃと、一人で寝言を言った。