コントレックス

心がざわついて落ち着かない。なんだか酷く悲しい気分だ。嫌なことがあって、それがどんどん近づいてくる。寝なきゃいけないのに、不安で寝られない。心臓がドキドキする。心が焦る。変な汗をかいてる。最悪の気分だ。ひとりでいたくない。

「シシーは寝たの?」
「ハチルさん、起きてたんスか」
「まぁね…、転…」
「はい?」
「…」

言葉に詰まって彼を見た。本当は続きなんて用意してなかった。誰かに存在を認めて欲しかっただけだ。転は俺を少しの間見つめた後、退屈そうに視線をまた手元に落とした。転が手にしているのはペンで、何やらノートに書きつけているみたいだ。何してるの?と尋ねれば、彼は短く、計算を、と言った。

「シシーと暮らすために俺がしなければならない雑務のうちの一つっス」
「店の…?」
「そう」

転は経営者らしく、かけたメガネを退屈そうに指で押し上げた。俺は転と向き合うように椅子に座って、そのノートを反対側から眺めた。数字がたくさん並んでいるけど、転の顔は無表情のまま。この店って繁盛してるのか?気にしたこともなかったけど。転は相変わらず俺を無視してまたノートを見つめている。このときだけかける転のメガネは少し大人びた印象を与えて、なんだかデキる男みたいだ。中身はただのロリシスコンのままだけど。
「なぁ…」と俺が曖昧に声を出した瞬間に、その転は長い長い溜息をついた。それがあまりにも俺を責めるような溜息の付き方だったから、俺は小さく肩をすくめて、なんだよ、とモゴモゴ言った。

「ハチルさん気づいてないかもしれないっスけど、さっきから俺の邪魔してますよ」
「ええ…ごめん…」
「何か用っスか」
「いや、用ってほどのことじゃ…もう邪魔しないからさ」
「……ったく…」

メガネ越し、レンズの向こうから転が俺を睨む。ごめんてば、と重ねて謝ってから、漸くまた視線をノートに戻した。頭使ってる時の転って恐いんだな。そりゃそうか、やらなければならない、ってことは、転にとっては一刻もはやく片付けたい雑務のうちの一つなんだろう。シシーのための、シシーとは関係のない雑務。再び暇になった俺は黙って転を眺める。店の財務管理。ツユキもやるのかな。電卓とかそばにおいて、皆が寝静まった頃に、一人でメガネかけたりして。邪魔したら、怒られるのかな。ぼんやりととりとめもなくそんなことを考えて、そこで初めてツユキのことを考えている自分に気がついて、顔をしかめた。転はノートばかりで俺のことは見てない。少しほっとして、なんでほっとするのか自分でも分からなくて、どことなく感じる居心地の悪さに頬杖をつく。転は真剣そうだ。俺のことなんか忘れてる。こいつはいつもシシーシシーで、それで、俺のことは利用できるモンスターぐらいにしか思ってないだろう。利用できるモンスター。実際それほど役に立ってるわけでもないけどな。

俺が知らない転は、なんだか普段よりしっかりしていて、頼りがいのある人間に見えた。黙っている間は人をばかにするような発言もないし、長い襟足は一纏めに括られていて、近寄りがたい見た目もわりと緩和されているように思える。髪を結ぶだけで印象って結構変わるんだな。お前結構髪の毛長いよなあとつぶやこうとして、また睨まれる前に開きかけた口をつぐんだ。ツユキなら睨んだりされても可愛いもんだけど、転はちょっとな。

すこしたったあと、転がメガネを外してノートを閉じ、立ち上がって、「何か飲みます?」と短く言ったので、俺はその小難しい作業が終わったのだと分かった。俺は首を振って断り、転はキッチンからペットボトルをもってくる。ミネラルウォーター。分かってた。転はいつも水ばっかりだ。シシーのためには何時間だって手をかけるくせに、自分のために手をかかることはあまりしない。ましてやシシー以外の誰かのためにミルクティーを淹れることなど決して無い。そういう男。

「どのタイミングでするのかなって思ってたのに」

と、ふいに転がつぶやいた。水を飲む転の喉を見つめていた俺は彼の言葉を全然聴いていなくて、え?と曖昧に言葉を返す。ボトルを置いた転が、唇を手の甲で拭いた。

「ツユキくんのこと考えてたんでしょ」

乱暴にそう言って、俺を見る。図星でしょ。と繰り返され、俺は驚いて目を丸くした。転は笑ってもいなければ驚いてもいない。呆れたような、バカにしたような、憐れむような、それでいてどこか寂しそうな、いつもの表情。俺が幸せな気分でいるとき、たまにコイツはそういう顔をする。だから俺はいつも混乱して、転のことがよく分からなくなる。なんでツユキが出てくるんだ。そんなの、俺の勝手だろ。何でお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ。文句を言おうと口を開けば、転は俺の服の襟を掴んで引き寄せた。すぐそばまで近づいた距離で、消えそうなほど低い声で、忌々しそうに彼は言う。

「間抜けな顔しやがって。しっかりしろよ」

一瞬、全てが止まる。思考も、呼吸も、静止して、俺は転を見上げ、転は俺を見下ろした。次に何が起こるか、誰も知らなかった。俺は固まったまま、転が俺にキスをしたその瞬間も混乱したままだった。

「しっかりしてくださいね」

転は俺の頬を軽く叩いて、それからすっと身を引く。俺が漸くまばたきをし、口を開こうとした時、彼は何事もなかったかのようにあくびをして、それから俺を見た。

「俺もう寝ますから。ハチルさんは?泊まってくんでしょ」
「え? あ…あぁ…」

今のは何だったんだとか、どういうつもりだとか、聞きたいことはたくさんあったのに、口からこぼれたのは気の抜けるような返事で、我ながら恥ずかしくなる。それでも何故かそれを聞いた転は愉快そうに鼻で笑って、俺シシーと寝るから俺のベッド使っていいですよ。おやすみなさい。とドアの向こうに消えた。一人、部屋に残された俺は混乱したまま。恐る恐る唇を舐めれば、さっき転が飲んでいた、ミネラルウォーターの味がした。