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「また頭のオカシイ女に噛まれたんスか?」

鏡の向こう側でハチルさんが手袋を外して何やら自分の指を眺めていたので、俺は珍しいなあと思ってそう言った。彼の手はいつもあの謎の手袋に覆われていて、あれに遮られて隠されたハチルさんの秘密を、こっそり盗み見るのが俺は好きだった。彼の手は愛と失恋の傷だらけ。手は人を表すというが、まさしくその通りだ。

シシーは今日は絵本に夢中。俺の服を握ったまま離さないから、俺は彼女をセットチェアに座らせ、その滑らかな髪に櫛を通していたところだった。
「違ェよ」と、ハチルさんは目を細めて言う。

「鳥に噛まれたの」

あまりにマヌケなその返事に、俺はハァ?と思わずハチルさんを見た。

さっき通りで彼を見つけた時、ハチルさんはぼんやり何か考え事をしていたようだった。春だから頭がおかしくなったのか?、声をかけようかどうか迷ったくらい、ハチルさんは変だった。見た目がどうというわけじゃなく、もっと直感的な違和感。だってハチルさんが突っ立っているのは女の傍じゃなく、暖かな春の日差しの下なのだ。変わったなあ、と俺はシシーを抱き上げてぼんやり思った。セカンドサーバーに現れたばかりの彼は、通り過ぎる女は気にしても、移り変わる季節を楽しむような人間じゃあ決してなかった。俺が女に生まれていたとしても、こんな気持ち悪いハチルさんはゴメンだ。挙句の果てに、鳥に噛まれたと抜かしやがる。

鳥?モンスターのアンタが?鳥に噛まれた? 俺はアンタがモンスターだから、わざわざ付き合ってやってんだぞ。そこら辺にいる、リヴリーみたいなこと言わないでくれよ。

「鳥っスか? 女じゃなくて?」

嘲笑気味の俺の声に、ハチルさんは「なんだよ、」と顔をしかめた。眉をひそめながら彼を振り返れば、ソファーに座っていたハチルさんは指をかざしながら俺をちらりと見た。

「ツユキんとこのインコだよ、前に話したろ、バカみたいにデカいやつ」

あァ、なるほど。

俺は曖昧な違和感を確信に変える。ハチルさんは変えられたのか。可愛い天使の笑顔を持つステキなステキなツユキくんに。同時に沸き上がってくるのは溜息。そうか。と俺はぼんやり頭の中で繰り返す。ツユキくんか。あの。

「シシー、鳥さん好きよ」

話を聞いていたのか、絵本に目を落としていたシシーが俺を見上げて声を上げた。そうだね、シシー。曖昧に返事を返して、俺は微笑む。さらさらとシシーの髪が俺の指の間を抜けていく。ハチルさんが後ろから、鏡越しにシシーに笑いかけた。その笑顔がまた俺をぎくりとさせたことも気づかずに、ハチルさんはまるで健全な生き物であるような声色で、まるで誰にも危害を加えない一般人のような顔をして、俺のシシーに話しかける。

「シシーが思ってるよりずっと大きいぞ。今日はティーポットに詰まって出れなくなってた」
「ほんと?」
「あァ、結局最後まで出なかったんだ。クッキー食べ過ぎなんだよ」

吐きそうだ。俺の脳は現状をそう判断した。ただ普通の、平凡な、そして挙句の果てに鳥肌が立つぐらい、ハチルさんには似つかわしくない幸せな会話。こいつは誰だ。俺は鏡の向こうで笑う彼を見つめて思う。一体何の話をしてる?

頭の中を、右から左へぬるく呆けたセリフが抜けていく。
ツユキはいつもアイツに甘いんだ。ツユキがそんなんだからどんどん大きくなるんだよ。だってツユキはツユキでツユキだから。エトセトラエトセトラエトセトラ。

指が動かない。ぬるすぎて、気分が悪い。
まるでその名前を聞くたびに俺の力は抜けて、ハチルさんは元気になってくみたいだった。
魔法の呪文。幸せな破滅の呪文。
あァハチルさん。バカなやつ。泣いてやりたいくらいだ。哀れな彼のために。

シシーが俺を見上げた。あの男の呪文のせいで、声が聞こえないよ。何か言ってる。俺のシシーの、控えめで上品な、唇の動き。
ねぇ、兄、さん。シシー、も、

「鳥さん、シシーも見たい」
「今度ツユキの店に連れてってやるよ。なァいいだろ転」

ダメだ、と頭をあげかけて、鏡に写ったハチルさんの顔に、思考が突然また止まる。
何がダメなんだ? そうだ、ツユキくんは、ハチルさんとは違う。キャスケットさんとも違うじゃないか。彼はただのリヴリーだ。モンスターじゃない。俺が警戒すべきは、

動きを止めた俺をシシーが不思議そうに見上げて、その反動で、また美しくて気持ちいい、すべすべした髪の束が、俺の指に雪崩かかってくる。俺の服を握ったままのシシーの小さな手が、ねえ、とでも言いたげに、ため息が出るほど緩やかに、俺の服を揺らした。ああ。もうそれで、たったそれだけで、俺は床に膝から崩れ落ちて、呼吸さえ、彼女の許可がなきゃできなくなる。

「じゃあ、俺も、行こうかな」

ずいぶん苦しげな声が喉の奥から漏れた。 俺を見上げていたシシーが、ぱっと小さく口角を上げて、それからハチルさんの方へ振り返る。あァ、クソ、ダメだシシー、ダメ、ダメなのに。俺は泣き出したくなりながら、俺を見てくれないシシーを見つめる代わりにハチルさんを睨んだ。

「インコだかオウムだか知りませんけど俺のシシーに噛みつくような素振りをしたらハチルさん、わかってますよね」
「き、気をつけます…」

引きつった顔を浮かべるハチルさんを放っておいて、ひとまず嬉しそうなシシーを抱え上げ、俺は額にキスをしてからその軽やかな体を床に降ろした。 足が着くなり、鳥さんは何色?、お名前はあるの?、と珍しくハチルさんを質問攻めにするシシーに、そんなに鳥が好きならいますぐにでも買ってきてやるよと眉をひそめて俺は思う。窓の外を見れば、銀色のあの子に気持ち悪いぐらいピッタリの、暖かで穏やかな、春の日差し。

「ツユキくんか」

アンタ変わったな、ハチルさん
春の日差しを眺めながら、つまらないな、と、俺はぼんやりそう思った。