チョコレートの魅力にとりつかれた女子の末路は決まっている。あの魅惑の食べ物は、大昔どこか南の大地で発見されてから今日自動販売機で売られるまでの長い長い歳月の間、数えきれない程の女子を誑かしてきた。あの魔法のような甘さと蕩ける口溶けで魅了し、夢見心地の幸福を味あわせたかと思うと、時間差の体重計で現実を突きつけてくるのだ。恐ろしいやつ。
その反面、チョコレートが救った女子の数もまた数えきれない。めそめそ泣いて、イライラ喚いて、どうしようもない女の子たちが行き着くのがすなわちこの物質。あれは薬だ。未来の見えない迷える子羊たちを幸せに浸す甘いおクスリ。失恋した女の子が縋りつく、現実復帰への甘い救命ロープ。生クリームの乗ったチョコレートケーキも含めれば、これに命を救われた女の子の(もちろん男子も)数をいちいち数えてはいられない。
俺が言いたいのは、俺の心は積もり積もった仕事のストレスでもうどうしようもなくイライラしていて、チョコレートがなきゃやってられない状態だが、しかし今週はこれ以上チョコレートを摂取すると、栄養(というよりカロリー)過多で後悔するハメになるぞと脳がガンガン警告しているこのどうにもならない状況の深刻さだ。
チョコレート。
俺は固く握りしめていた手のひらを恐る恐るこじ開けて、きつく握りしめられていた小さな鍵を見つめた。机の引き出しの鍵。この鍵を使って開くことができる引き出し中には、チョコレートバーという名の黄金の山が眠っている。
「エマぁ」
腑抜けた声が突然殴りかかってきて、俺は首をすくめて声のする方を見た。声をかけると同時に俺の肩を乱暴に掴んだのはフリッカロッタ、俺が家を空けているうちに勝手に部屋に上がり込み、勝手に冷蔵庫を物色していた空き巣野郎だ。
いちいち触るな、と怒りもあらわに上げた悲鳴をこの男はあっさりと無視して、掴んだ肩を引き寄せると、子供を足の上に乗せるペンギンのように、俺の背中越し、忌々しいほど上から俺を見下ろした。
「何見てんの」
「別に!」
「あ?キレてんのか?」
「キレてない!」
大きな声を出してみせたところで、この男は一切動じない。それどころか、「悪い上司にイジメられたんなら、俺がぶっ殺してきてやろうか?」と、俺の両方の頬を両手で摘んでいじりながら物騒な発言を平気で飛ばす。放せよ! お前のおもちゃじゃない! と叫んでみたものの、頬を摘まれてたせいでまともな声にならなかった。クソ! イライラが加速する。こんなお戯れ、この男にとっちゃたいして意味もないことだ。分かってる、分かってるからこそムカついてくる。
「もう放して!」
「逃げてみろよ」
「クソ!!!ウザいからやめろ!!!」
漸く彼の手から逃れた俺。だが、イライラはさらなるイライラを呼ぶ。これもいままでイライラを体験してきた数えきれない女子からの教え。俺はフリッカを突き飛ばし、勢い余って自分でよろめいて、前にあったソファーに倒れ込みそうになった。
子ペンギンは親の足の上から動かない。そこが安全だとわかっているから。だが俺はペンギンじゃない。瞬きする間もなく起こった出来事に俺は対応しきれず、痛いと悲鳴を上げる準備のために目をぎゅっとつぶって唇を閉じた。ところがそれを、フリッカの腕がまたあっさりと止めた。
「大丈夫か」、も、「エマはドジだな」、も、何もない。軽々と抱きとめて、それだけだ。
フリッカはよろめいた俺の腕を引っ張って、俺を引き寄せ、そのまま俺を自分と向き合うようにくるりと回転させた。顔が熱くなる。
これだ。この感じ。俺には分かる。こいつは俺をぬいぐるみだと思ってやがる。好きなようにいじれるぬいぐるみ。俺は一人でバタバタやった恥ずかしさに赤面した顔をただただ覆っていたが、その手さえ無言でフリッカに降ろされて、それからまた片頬をむぎゅっと掴まれて、あああああ、もう腹立たしさと恥ずかしさで泣きたくなりながら、目の前の男を細目で見る。
イラつくんだよキサマはいちいち。小馬鹿にしたように眉を潜ませるフリッカに、俺は心の中で悪態をつく。フリッカは不機嫌な俺を見下ろして、それから小さく笑って、掴んでいた頬を放すと、俺が頬をさする前にそのまま勝手に親指で俺の頬を撫でて、そしてまた勝手に、俺の髪を優しく撫でた。その手が、意地悪で、優しくて、自分勝手な、ズルい手が、俺をイライラさせるのに。
「さわるな」
喉から出た声は、今度は恥ずかしくなるほど小さかった。
イライラの原因だ。勝手に一人で不機嫌になって、落ち込んで、チョコレートを食べ過ぎて、また落ち込んで、不機嫌になる。過去数え切れないぐらいの女の子たちが、そうしなければならなかった理由のひとつが、これだ。なんで優しくする?俺は1人で勝手に不機嫌になってるのに。お前に当たってるのに。黙れって言って、怒鳴ったり、突き飛ばしたりすれば良いのに。俺よりデカくて強いくせに。それが、できるのに。
こいつは世間では相当な嫌われ者だ。人々を恐怖に叩き落とす存在だ。そのくせに、なぜかこうやってたまに俺に優しくしやがる。子供だと思ってなめてんのか。そうじゃないことをわかっているから、余計心がチクチクした。フリッカロッタは、良いやつなのだ。みんなの前ではそうじゃなくても、俺の前では、ごくごくたまに、良いやつになる。そういう男なのだ。
彼から隠れるように俯いている間に、勝手に溢れかけていた涙の雫を右手で拭う。なんの涙なのか自分でもよくわからない。しかしそれに気付いたフリッカは、また俺の両頬を右手でぎゅっと掴んだ。
「変な顔」
何すんだよバカ!!と憤慨して叫んだ涙声は、またしても間抜けな声にしかならなかった。
一瞬でもコイツを見直した俺がバカだった!やっぱりろくでもない人間だ、騙されるな!
一度引っ込んだ涙が、痛みでまた零れそうになってくる。イライラは最高潮。やっぱり今日は厄日で、イライラの原因は貴様だフリッカロッタ。これはチョコレートがなきゃやってられない、先人の教えはやっぱり正しい。後でどれだけ後悔したって、今日はヤケ食いしてやる。太ったって構うもんか!!
「もうフリッカなんて知らな」
喚き立てた言葉の後半は、俺の唇に勝手に落とされたキスのせいでくぐもった恨めしげな呻き声にしかならず、俺が必死で握っていた秘密の鍵は控えめな小さい音をたて、床のどこかへ落っこちていった。