女子トイレでの事件

鏡越しでも美人は美しい。トイレですれ違った、背の高いPパキケの女性。美しい彼女の横顔に見惚れて、1秒と少し、固まった。女の人だって、男の人だって、美しいと思うものには人は心を許してしまうものなんだろうね。それがどういう類の美しさか、その少しの時間で判断できなくてもだ。目の前で何が起こったかなんて、事実起きてる最中は、その頭では判断できない。

ふり返る前に、彼女はふらりとバランスを崩して倒れこんだ。ぎょっとして振り返って、わたしは美しさとはなんて儚いものだろうと思い知る。額にびっしょり汗をかいて、胸を抑えて苦しそうに顔を歪める美しい女性の姿に、やっぱりまだ見惚れてるって言ったら人として終わってる。大丈夫ですか、なんて、明らかに大丈夫じゃないのが分かっててそう口走った。細い腕を肩に回して、軽すぎる彼女の体を助け起こした時、初対面のはずの彼女がわたしに向かって、「ああ、なんだ、君かあ、」と溶けた笑顔で微笑んだのを見て、わたしは事態の深刻さを実感すると同時にその笑顔の美しさにぞっとした。これがヤク中のナースチェンカとの初めての出会い。病的に青白く、やせ細ったモデルみたいな華奢な指で、彼女はわたしにキスをした。苦くて、甘い、化学繊維で人工的に作られた甘味料みたいな味がした。
悲鳴をあげたら彼女は笑って、大丈夫、別に、病気とか持ってないよ、だなんて切れ切れの声で呟くからわたしは喚く、わたしが言いたいのはそんなことじゃないんです!! この人の頭が正常じゃなくなっているのは明らかで、でもどうしたらいいのかわたしには分からない。そのうち苦しそうにまた眉をひそめた彼女の瞼がだんだん落ちていくのを、わたしは泣きそうな気持ちで見つめた。

死んじゃうんだろうか、このひと。
わたしの手の中で?

パニックになると、人間、冷静な判断ができなくなる。わたしは今腕の中で死にかけているこの美しい人に比べたら至って健康な女子だというのに、まるで彼女の病気が移ったみたいに胸が苦しくなり始めた。酸欠の金魚が口をパクパクやるみたいに、だんだん呼吸が大きくなってくる。おちつけ、おちつけリズ・サマーフィールド。わたしがしっかりしなければ、この人は死んでしまう。だけどこんな、劇的な展開なんか、映画の中でしか見たことない。人工呼吸?心臓マッサージ?思いつく単語はままあれど、彼女の心臓に耳を押し付けてみればまだ脈は触れている。助けて、と誰もいない女子トイレで口走りそうになりながら、わたしは涙目で辺りを見回した。女子トイレのメイクルーム。落書きだらけの化粧台と、チカチカして今にも消えそうな、オレンジ色のライト。人命救助に適した衛生的な環境だなんて、口が裂けても言えない。時給が高いからって新しいバイト先に即決してしまったけど、初日からこんな目に合うなんて聞いてない。

「おみず、」
「な、なんですか!? みず? そうか、水ですね!? ちょっとまって、」

絞り出したような掠れ声で彼女が呻いて、わたしは慌てふためきながら彼女の腕を降ろしてよろよろ立ち上がり、でもこのままじゃ苦しいかな、と一瞬思い直してわざわざ仰向けに寝かせてから洗面台のところまで走って行った。頭の中がこんがらがっている。体勢なんかより、水だ。わたしは蛇口を思いっきり捻って、それからコップみたいなものを探したけど無くて、もう泣きそうになりながら両手で水を受けてそのまま彼女の元へ走って戻った。混乱状態の脳じゃ水がびちゃびちゃ自分の服にかかっても気づかない。自分の手が震えてるのにも気づかないんだから当たり前だ。

「お水です、飲めますか?!」

彼女の体を起こしたかったけど、あああわたしのバカヤロウ両手をコップにしてるから起こせない。なんてバカなんだ。ドアホだ。でもわたしが彼女の体を抱き起こすために両手の水をぶちまける前に、彼女がゆっくり目を開いて、自力で起き上がった。上体を起こした彼女の口に手を近づければ、彼女はしゃくりあげながらも水に口をつける。赤い口紅を塗った彼女のセクシーな唇が、水に濡れて光って、わたしは、そんな場合じゃないのに、ああバカだな、すごく、綺麗だなとおもった。

「ナースチェンカー?」

はっと我に返る。誰かの声だ。助けてもらわないと、そう思って立ち上がりかけたら、上体を起こしたままの彼女が、まだ水を受けたままのマヌケなわたしの手を掴んで引き止めた。でも、彼女はまだ苦しそうで、青白い顔にびっしょり汗をかいていて、だからパニックを起こしているわたしの頭でも、彼女が何故それを嫌がるかはわからないけど、誰か助けを呼んだほうがいいという判断はまだできた。

「じっとしててください、今助けを呼んできますから、」
「ダメよ、行っちゃダメ…。彼を、連れてこないで…」
「動かないで下さい、分かりましたか、動いちゃダメ、すぐ戻ってきますから」

じとりと濡れた、うつろな目で、わたしを見つめる彼女の目。なんだか心臓の奥が痛い。本当は逃げ出したかったんだ。誰かに助けて欲しかった。わたしじゃなくて、別の誰かを連れてきて、その人に何もかも任せてしまいたかった。何も出来ない自分じゃなくて、この人を助けられる誰かに。こんなに怖いと思ったのは久しぶりだった。

空になった手を床に付けないと立ち上がれないぐらい震えていた。だけどわたしは立ち上がって、よろめいて、女子トイレの出口へ向かう。彼女はもう力尽きたのか、自力で起き上がることも出来ずにそのまま後ろに倒れこんでしまった。はやくしなきゃ、本当に死んでしまう。びちょびちょに濡れた手で取っ手を掴んで引っ張ったら、すぐそこに、見覚えのある、顔。

「…サマリー?」

パニクっていたこともきれいさっぱり忘れて、わたしは目の前の背の高い人を見つめた。思考停止。マヌケな感じで、ぽかんと口を開けてたかもしれない。でもその黄緑色の目から視線が外せなくて、しばらく見てなかったはずなのに昨日会ったみたいにわたしの名前を呼んだ彼の声が頭に響いて離れなくて、綺麗さっぱり忘れるためにバイト三昧してたっていうのに、またひょっこり現れた彼の忘れたかった顔がすぐ目の前にあることにびっくりして、開いたまま閉じられなくなった目がじわじわ熱くなって、とにかく急に涙が出そうだった。気づいた時には心臓が爆発しそうで、それがわかった瞬間に、ぎゅううっと心臓が無理矢理絞られるみたいに、痛くなった。

「なんでサマリーが」

泣きそう。泣いちゃいそう。泣いたら負けだ。さらなる混乱を抱えた頭が急に、意地でも泣くかと頑固に誓う。決意しながら、なんでだかすごく泣きそうだった。零れそうになった涙を食い止めるために顔を歪めたわたしをみて、ハチルさんはぎょっとして、でも何で泣いてるんだかわからないくせにまたわたしの頭に手をのばそうとするから、その手に今度はわたしがぎょっとして、うわやめろやめろ、やめてください、声にはならなかったけど、わたしは慌てて体を引いた。

「ち、違くて、あのひと! 彼女を、」

口走ってから思い出す。そうだ。彼女だ。慌てて振り返って、仰向けに倒れた彼女を見る。ハチルさんはわたしの冷静さを欠いた脈絡のないセリフと、目の前の状況からすべてを悟ったようだった。何の躊躇もなくわたしの体を押しのけると、横たわったびしょ濡れの美しい女性に駆け寄って行くハチルさん。その姿を見てこんなにも心臓が痛むのはきっと、パニクるあまり彼女をぐちゃぐちゃにしてしまった申し訳無さから、きっとそうだ。

痛む心臓と息苦しさを抱えたまま呆然と佇むだけで何の役にも立たないわたしは、彼女のそばにしゃがみ込んだハチルさんがその美しい顔に耳を近づけるのを震えながら見ていた。わたしがオロオロしている間に、彼女の服のあちこち手を突っ込んでなにか探していたハチルさんが、彼女の胸ポケットから何か取り出した。彼女のズボンのベルトをするりと引っこ抜く彼の姿を見ていたら、ハチルさんがちらりとわたしを見上げて申し訳無さそうに言う。

「サマリー、ちょっとこっち来てここ押さえて」

カラカラの喉からうわずった返事を絞り出して、わたしはハチルさんの隣りに座る。心臓が爆発しそう。全身汗びっしょりだ。目の前に死にかけている女の人がいるからじゃない。分かっていたから余計、発狂しそうだった。

「それで腕縛って」

ハチルさんの声がする。ハチルさんの声だ。言われたとおりに白い腕をベルトで縛りながら、わたしの脳は歓喜の悲鳴を心の中で繰り返した。自分が何をしてるのかわからない。ハチルさんが何をしようとしてるのかもわからない。だけどここにハチルさんがいて、わたしに何か言ってることは分かった。こんな状況なのに、わたしって、おかしいのかな。

気づいたら何もかも終わっていて、ハチルさんは彼女を壁のある所に背中を預けるようにして上体を起こして座らせているところだった。何も役に立たなかった。自分じゃ彼女を助けられないと、最初から分かっていたはずなのに、こんなにも、あまりにも手際よく、一瞬で。彼は目の前にいるのに、何が起こってるんだかわたしはいっつもわからないまま。

彼は眠ったままの彼女の頭をさらりと撫でると、自分も床に座り込んで、ふう、と大きな深呼吸をした。

「びっくりしたなぁ」

独り言のように呟いた、彼を見つめすぎている。分かっていたけどやっぱりわたしのまばたき機能、さっきパニクった時にあっさり死んだみたいだ。ぽかんとしたまま自分を見つめるわたしにハチルさんは少し笑って、でも寂しそうに眉は下げたから、わたしは漸くそこで彼が言っているのは自分のことじゃなく、彼女のことだと気がついた。視線をハチルさんから引剥がし、静かに寝息を立てる彼女を見つめた。わたしはまだふやけた頭で、ハチルさんの言葉を繰り返す。

「この娘。ダメだって分かってて、でも繰り返して。放っとけなくて」

似てるからなのかもしれない、とふわっと思う。ハチルさんのどうしようもない悪癖と。それがこの美しい人と彼の共通点で、だから二人は今ここにいるのかもって、いや、もうそんなこと、わたしには関係ないのに。

「この店がお気に入りって聞いてたから、もしかしたらって思って来てみたら、案の定」

ついさっきまで死にかけていた女の人を目の前にしてるっていうのに、ナチュラルにハチルさんのことを考えていた自分の頭の単純さに顔をしかめれば、当のハチルさんがそういえば、という風にこっちを見た。

「ところでサマリー、なんでこんな所にいるの? センターサーバーでバイトしてるって言ってたのに」
「…あなたにフラレてからわたし、バイト掛け持ち3つしてるんです…忘れようとおもって」
「俺のこと? そうなんだ…忘れられた?」

へらりと笑うハチルさんに、呆れる。というか、怒ってる。いじわる。そう、いじわるだ。ハチルさんはいじわる。ふつう元カレとか、も、元カノとかって、こんなフレンドリーなものなの? そんな風に話しかけてこないでください、親しげに笑わないでよ。意識してるわたしのほうがバカみたい。さっきまで嫌でも逸らせなかった彼の目を、今はまともに直視できない。ムカついて俯いて自分のヒールの先だけ見つめていたら、床が濡れまくっていることにも気付いたし、自分の服がびしょ濡れなのにも漸く気が付いた。恥ずかしいな。ひとりでパニックになって。ハチルさんはあっという間に彼女を助けて、わたしの方は、彼が来なきゃ、何も出来なかったなんて。

「俺のことフッたのサマリーでしょ」
「なっ、それはハチルさんの浮気のせいでしょ!」

落ち込むわたしの心の中なんて知らない自分勝手なハチルさんの無責任な発言に思わず声を荒らげれば、何が楽しいのかハチルさんは笑って、ごめん、とあっさり罪を認めてみせるから、わたしはますます顔がしかめっ面になる。おもちゃ壊したとかじゃないんだよ。そんなに簡単に、笑顔で謝らないでよ。さいてい。

「元気そうでよかった」
「…元気じゃないです。初日から、こんな目に合うなんて…ハチルさんは慣れてるのかもしれないけど、こっちは死ぬほど怖かったんだから」
「迷惑かけて悪かったよ。でもサマリーがいてくれてよかった」

わたしはもうハチルさんには会いたくなかったんですけどね、って言いたかったけど言えなかった。やっぱりハチルさんに名前を呼ばれるとどきっとしてしまうからだ。いまだに? いまだにだ。別れてからずっと、ハチルさんに会いたかった。ダメだって思っていても、心の底では会いたいって思ってた。だから意味もなく働いて、あなたのことを、考えないようにしてきたのに。いつだって自分勝手で、現れるのは唐突。ずるいよ。

「…彼女とは、どういうご関係で」
「ナースチェンカ? 俺の知り合いの…友達の妹?」

なんだその、疑問符。

「信じると思ってるのそんなの」
「まあいいじゃん」

相変わらずステキな笑顔で笑って誤魔化すのが得意だね。わたしはドキドキ言う心臓を抱えて舌打ちしたくなりながら思う。もうあなたにはまるっきりぜんっぜんこれっぽっちも興味が無いから、大人のわたしはあえて誤魔化されてあげるよ。なんてね。ほんとは答えがわかってるから、別にいいんだ。

「わたしもう帰る」
「あァ、迷惑かけて悪かったな」
「別に、迷惑はかけられてないです。助かってよかったと思う。むしろ助けてくれてありがとう。彼女が目を覚ましたらよろしくお伝え下さい。それじゃ」

一気にそう言って、くるりと踵を返す。待ってよ、と彼の困ったような声が響いて、ふいにわたしの腕が掴まれる。ずるい、と思った。ハチルさんは、わたしが言わずに飲み込んだ「待って」を、いとも簡単に吐きやがる。

「今度お礼するよ。飯でも奢る」

わたしの腕を掴んだまま、ハチルさんが言った。わたしは振り向かない。だって振り向いたら今度こそ負けだもん。絶対振り向かない。ヒールの先っちょに穴が空くんじゃないかと思うぐらいわたしはずっと一点だけを凝視して、そのくせ耳はまだハチルさんの声を、腕はまだハチルさんの手を、痛いぐらい知覚していて、

「いいよ、ハチルさんにお礼される筋合いないし」
「そんなこと言わずにさ」

震える声を絞り出せば、ハチルさんは優しく答える。嫌いだ、お前なんか、大嫌いだ。涙が溢れそうな鼻をすすってわたしは思う。走って逃げよう。次にハチルさんが何か言ったら、この腕を振り払って、全速力で、走って、

するり。腕が落ちる。ハチルさんの手が離れる。支えを無くしたわたしの腕は、重力に沿って、わたしの体にぶつかった。ああ、嫌な、予感。俯いていたはずの視線が、ぐるりと回されてハチルさんを捉える。気づいたら腰に手を回されて、わたしはすっぽりハチルさんの真正面で動けなくなっている。わたしはさっきまで逃げようとしていたことも忘れて、ぽかんとハチルさんのきれいな目を見つめた。

「ごめん、サマリー」

優しく、こんなにも優しく呟かれて、わたしは怒りがこみ上げる。

何に? 何に謝ってるの?
あの時わたしを傷つけたこと?
さっき死ぬほど怖い目に合わせたこと?
今こうやって無理矢理、逃げられなくしたこと?
言ってるだけでしょ、わかってるんだから。
わかってるんだから、あなたが、どんなに、ひどい、人間か、

それでも、

「うわあああああん」

ハチルさんに抱きしめられたら、さんざん我慢していた涙があっけなくこぼれ落ちた。決壊したダムみたいになって、もう自力じゃ止められない。チクショウ、チクショウ、お前なんて大嫌いだ、なんでいまさらでてくるんだ、会いたかった時にはそばに居てくれなくて、他の、他の女の子と仲良くしていたくせに。わたしが忘れようって頑張ってる時に限って、あっさりでてきて、ばかみたいに、優しく名前なんか呼びやがって。抱きしめやがって。ヒーローみたいにかっこ良く現れて、わたしの目の前で、他の女を救いやがって。このやろう、このやろう、おまえなんか、おまえなんかなあ、

「しんじゃえ、ハチルさんなんか、しね」

あっけない。また泣かされた。腕の中で。あの時と同じだ。だからもういっそのこと、涙でぐちゃぐちゃの顔を、ハチルさんのお腹にくっつけてやった。意味不明なことを喚きながらバシバシ叩いて、奇声を上げて、そしたらすっきりするって、思ってるわけじゃなかったけど。

それでもハチルさんはぎゅっと強くわたしの体を抱きしめるから、そうすればわたしが満足するなんて思わないで欲しい、キスすればわたしがハチルさんを好きだった頃を思い出すなんて思わないで欲しい、わたしがどんなにハチルさんを好きだったか、わたしがハチルさんの前ではどんな女の子で、どんな風にハチルさんに愛されたかったか、思い出させないで欲しい。ああハチルさんの体だ、ハチルさんの匂いだ、ハチルさんの声だ、ハチルさんの体温だ、ハチルさんなんだ、なんて、そんな、甘っちょろくて弱っちい、女の子みたいなこと、お願いだから、思わせないで欲しい。

そう思ったら余計涙が止まらない。やっぱり死んでもらうしかない。
死んだらずっと、ハチルさんに会わないですむ、こんな想いをしなくてすむ、
ハチルさんはバカヤロウだ

わたしがハチルさんをきれいさっぱり忘れちゃった後も、ずっとどこかで生きていて、ふらりとこうやって現れて、
その笑顔で、その声で、サマリーって名前を呼ばれるのが、こんなにも嬉しいだなんて、
もう二度と、思い出させないでよ。