べつにいいよ、それで

涙目のハチルさんは、「戻りたくないから」という子供染みた理由で俺の所にやってきた。泣き虫の皮を被ったモンスターから愛する妹を守るべくどうにか彼を追い返そうと頑張った俺だが、当のシシーに「泣いてるのかわいそうだよ」と言われて結局折れた。俺の天使は心が優しい。

ハチルさんは本当は俺達の所に上がり込むつもりなど最初からなかったのだ。ただ俺と、子供みたいな真似するなとか、そんなこと言うなよとか、帰って大人しく寝てろとか、玄関先でくだらない押し問答がしたかっただけだ。深夜になっても眠れないよう、と寂しがって泣き真似をする子供みたいに、冬眠前に俺と他愛ないおしゃべりをして寂しさを紛らわせたかっただけ。それが分かっていなかったのはシシーだけだったけど、俺は彼女の優しさに免じてあえて彼を迎え入れてやった。ハチルさんは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、結局彼も、戻りたくないから、帰りたくないから、あえて彼女の優しさに黙って乗った。

鬱屈した理由のない不安だとか、どこからともなく湧き上がる絶望感とか、そういう負の感情に苛まれる気持ちを、俺はあまり理解できない。俺に分かるのはとにかく目の前でハチルさんは苦しんでいて、そういう彼の姿は普段の腑抜けた彼よりもっと弱々しく、放っておけないような、特別な愛らしさがあるってことだ。

暗く落ち込んだ気持ちを払拭するため、自分が何者かを忘れるため、彼は一心不乱にくだらない毎日を継続させようとした。中身の無い会話とか、どうでもいい笑顔とか。回りくどくて面倒臭かった。その拒絶反応はあまりにも、何かに怯えるか弱い生き物のようだったから。

「ハチルさん」

俺を見て。潤んだ黄緑色の目。
その眼の色を、アンタは忘れたいんでしょ。
目を閉じたらいい。何もかも見なかったことにして。
何もかもなかったことにすればいい。
ベッドの上でなおもがこうとする彼の手首を掴んで、その耳にそっと囁いた。
逃げ方を教えてやる。アンタが一番欲しい物をやるよ。

彼が酸素を求めて喘ぐ唇をいちいち丁寧に塞いでやったり、押しつぶされそうな気持ちの中で何かを探して繰り返し伸ばされるその手を絡めとったり、後から後から勝手に溢れて落ちる涙の雫を眺めたりしていると、俺はこいつが好きなのかもしれないと鈍く揺らぐ思考の中に泡のような思いが浮かんでは消える。彼は許してくれ、と繰り返し勝手に懺悔して、その度に俺は毎回許しを与えてやった。どこの誰に謝ってるのかなんて知らない。だけど俺が言葉を与えるその度にハチルさんは泣いて、俺は自分の胸の中が熱くなるのを感じた。不定期な彼の感情の発露は、もはや言葉の領域では発散できないのかもしれない。情緒不安定な心は揺れ、繰り返し懺悔の言葉を唱えるハチルさんを見ていると、俺のほうが心穏やかになる気がした。

「いつまでここに居れるかな」

と、ハチルさんが息を吐きながら、天井を見つめて静かに言った。俺はベッドチェストに置いていた酒をもっとハチルさんに飲ませようとそればかり考えていて、冬眠前の睡眠障害でただでさえシラフじゃなくなっている彼が朦朧とした頭で呟いたセリフなんか半分聞き流していた。それはもうすぐ居なくなるよという宣言なのか、ずっとここに居たいよという希望なのか、どっちにしろどうだっていい。

「勝手に来たんだ。居たいだけ居ればいいんじゃないスか。そんで、居なくなる時も好きにすればいい」

ベッドの上で男が二人。俺はウィスキーの瓶を抱えてハチルさんの胸に勝手に頭を乗せていて、ハチルさんの方は不安そうに枕を抱きかかえていた。ユウウツな毎日を忘れるために、自分のアイデンティティーを殺すために、俺達は頭を出来るだけ空っぽにした。

「朝が来た。忌々しいな」
「太陽なんか登らなくていいのに」
「…忘れたい?」
「忘れたいよ」

耳の後ろ。首筋。鎖骨。別に俺はハチルさんを食べたいとか喰ったら美味しいだろうなとか思ったことなんて一度もないけど
でもハチルさんが泣きそうな顔で目を瞑るのを見るのが楽しいから、ただそれだけの理由で、傷だらけの体に触れたし、噛まれるのが嫌だったから、左手でハチルさんの口をふさいだ。まるで悪夢にうなされてるみたいだと、思う。閉じた目も、苦しそうに眉間に酔った皺も、汗で湿った肌も、全部。

「…っ…うぅ…」

泣くなよ。
泣かなくたっていいよ。
俺は別に、アンタが化け物でもいいんだ。

顔を覆うハチルさんの腕をどかせば、黄緑色の目が、俺を見る。いつもと同じだと思う心の奥で、どこかその色に怯える俺がいる。彼が居なくなるのが怖いのか、彼が彼じゃなくなるのが怖いのか、俺には分からなかったけど。ハチルさんの目尻に残った雫を指で拭って舐めてみたら、俺たちと同じようにしょっぱかった。