君を食ったら泣くのをやめるか

俺が目を開けた時、視界を覆ったのは白い天井ただそれだけだった。窓には薄いレースのカーテン。壁にはポスターもカレンダーも時計も何もない。ただ白い壁。それだけ。悪夢を見ていたような気がする。けれど、どんな夢だったかわからない。窓から差し込む光はとっくに朝を告げていて、重たい瞼をもう一度閉じた。俺の部屋じゃないよな。怪物の森の、スズメバチの巣に、こんな綺麗で真新しい天井を持つ部屋はない。あの城は古い上に、どの部屋も広くて笑えるほど物がたくさんある。となると、俺はどこで何をしているんだ。そこまで考えて、ため息をつきたくなる。続きはどこだ?なんでここへ来て、何をしようとしてたんだ。記憶の糸を辿りたくてもそんなものはない。だからあっさり、考えるのをやめた。

思考を手放したら、誰かが右腕に抱きついているのに気づいた。はっきりしない頭で、彼女の姿を見る。冬の淡い朝の光を反射する、くしゃくしゃの美しいプラチナブロンド。それで思い出した。俺の知る中で、こんな殺風景な部屋に住んでる女は一人だけ。ナースチェンカは俺がいない間も、相変わらず冷たい床にラグを敷くことも、家具を揃えることもしなかったようだ。彼女は俺の腕をしっかり抱いて、俺の隣で眠っていた。何もないシンプルな部屋に似合うと思ってしまうくらい、朝日に薄く溶けるような彼女の髪。その下からかすかに聞こえる寝息も、今にも消えてしまいそうだった。寝顔は、ふやけた頭じゃなくたって見惚れるほど綺麗だけど。その格好は気に入らないな。彼女の体から腕を引き抜いて、光を吸うような髪を撫でる。ゆるりと薄目を開けて、おはようと微笑むナースチェンカ。重たい頭を傾げて聞けば、喉からはずいぶん掠れた声が出た。

「それ、俺のシャツ?」
「似合う?」

ナースチェンカは質問に笑って、また俺の腕を掴んだ。絡められる細くて白い指。寝てる間に脱がしたな。そう呆れ声で問い詰めれば、彼女は嬉しそうに笑った。ぐっすり寝てたから、簡単だったよ。なんて、えげつないことを、嬉しそうに。

「返せよ」
「いや」

いたずらっぽくそう言った彼女に俺は溜息をついて、掴まれて動かせない右手の代わりに左手で目を覆った。ああ、気づけば俺は手袋も取り上げられていたらしい。ねえ、それどころじゃないんだ、ナースチェンカ。俺は、どうして君と一緒にいるんだ? 別の人間に会っていた気がする。でもそれが誰だったのかわからない。冬眠時期はいつもこうだ。ついさっきの事のようで、ずっと昔の事のようだった。俺はずっとここにいたのか?君の家まで意識不明のままやって来て、君のベッドで君と寝てた? 思い出せそうで出せない。クソ、イライラする。脳が混乱している。あれは夢だったかもしれない。それとも、ずっと前の記憶なのか? 教えてくれナースチェンカ。今は何日で、俺は今何度目の夢を見てるんだ。

ゆっくりと、ナースチェンカの指が顔に触れる。ねえねえハチルちゃん。甘ったるい声が脳内にぼんやり響く。顔の上に乗せていた左腕を掴まれて、降ろされて、視界はまた白い天井に染められた。そっと頬に彼女の指が添えられて、結局無抵抗のまま彼女の方へ顔を向けさせられる。視界に写るナースチェンカのきれいなブロンドに触れようと指先を宙へ彷徨わせて、でもやっぱり腕が重くてすぐにおろした。

「…思い出せない」

囁いた独り言は睡魔に負けそうなぐらい弱々しくて、俺は半分目を閉じたまま、彼女が俺の手を勝手に掴んで自分の顔に載せたり、頬に寄せたり、キスしたりするのを止めさせようともしないで、襲い来る睡魔に流されるままになっていた。頭の中は整理がつかず、霧がかかったようにもやもやしたまま。何もかもがめんどうだった。ナースチェンカは俺の手にキスをしながら大きな目で俺をじっと見つめると、右手を伸ばしてまた俺の頬に触れた。

「脱がせたい?」

彼女の声が耳元で響く。わざと優しく、甘く、囁かれる声。もやがかかる脳の中で、目的地を見失わない蛇みたいに、自由自在に動き回る。
ねえ、と彼女の唇が繰り返す。全身が震え、鳥肌が立つ。駆け巡る切なさに、俺は目を閉じた。

「それとも脱いで欲しい?」

ナースチェンカがキスをする。彼女の髪が少し、顔の上に落ちて来る。唇に寄せられる柔らかく甘美な味。その唇の感触に、歯が疼いた。ああ、そうか。思い出した。俺は、君を食べに来たのか。

「やめろ」

その唇を唐突に手でふさいだ俺に、ナースチェンカは少し傷ついたみたいな、驚いた顔をした。当然だ。だけどそんな彼女の顔にすらイラつく。ああ、びっくりしたよな。俺はいっつも君に好き勝手キスさせてやってるから。さっきみたいにさ、何にも言わずに、何も理解しないまま、君の隣でただ寝てる俺を、君は見てきた。自然の摂理に勝てないで、眠りこけてる男の姿。それがどういう意味を持つのか君はわかってただろ。目を覚ましたとき、俺が本能のままにリヴリーを食う化け物に戻るかもしれないって、君は、わかってたはずだ。わかってて、俺をここに、連れて来たんだ。

一つ記憶が解けると、霧が少しずつ晴れていく。森に帰りたがった俺を、君が言いくるめた。俺は体に言うことを聞かせることもままならないくらいふらふらで、そうだ、「髪の毛ぐちゃぐちゃだし、具合悪そう」って、君が言ったんだ。

「俺もう帰らなくちゃ」

うわごとのように呟いて、頭を振る。ああクソ、最悪な気分だ。でも君のせいじゃない。全部俺のせい。だから俺は混乱したままの彼女の頬をもう一度撫でて、それから起き上がった。けれど賢いナースチェンカは、俺が呟いた言葉を聞くなりその顔からさっと微笑みを消して、立ち上がろうとした俺の腕をまた引っ張った。彼女の腕に引かれた体が、一瞬だけ止まる。しかしナースチェンカだって腕を引っ張ったくらいで俺を止められるとは思っていない。だから彼女は、俺が手を伸ばした先にあったジャケットを、俺より先に引ったくった。さっと取り上げて、二度と離さないと固く決意して、抱きしめた。

「行かないで、いっちゃダメ。私、一緒にいたい。あなたの力になりたいの」
「春になったらまた来るから」
「嘘だよ」

震える声で彼女が言うから、俺は目を細めた。賢いナースチェンカ。賢くて、察しが良くて、自滅的な女。だからわざとゆっくり、彼女に告げた。俺は、これ以上、君のそばにはいられない。

「私のことなら食べてもいいから。少しでもそう思ったから、ついて来たんでしょ、あなただって」

必死な彼女は、そう言って顔を歪めた。君はわかっていた。俺もそうだった。あのとき君を突き放して森に帰ることもできたのに、俺はそれをしなかった。俺も君もわかってて、そうだ、こうなることがわかっていて、こうなるときまで自分を止められない。

「俺は君を食べないし、食べたくない。今すぐ帰る。ここにいてもいいことないから」

語気を強めたのは、自分に言い聞かせたかったからだ。低く、口をついて出た最後の一言に彼女は泣きそうな顔をして、俺を見た。ナースチェンカはことさら、こういうのに敏感だ。だけどごめん、今の俺には君を思いやる余裕もないんだ。だから俺は無理やりジャケットをひったくった。

「返せよ、それも」
「ダメ。絶対脱がない」
「ナースチェンカ。無理矢理脱がすぞ」
「怖くないわ。ハチルちゃんなんか」
「今の俺は君が知ってる俺じゃない」

いや、とナースチェンカは繰り返した。それなら、いいさ、わかった。お望み通りにしてやる。俺は彼女の細い体をベッドの上へ押し倒して、腕を掴んだ。彼女の抵抗なんて、モンスターにとっては無いにも等しい。早く片付けてしまいたかった。痛い、と叫んだ彼女の両腕を、左手だけでひねり上げて彼女の頭の上で抑える。右手は彼女の腹の上。シャツの下に手を入れれば、彼女の肌の温もりが伝わってくる。暴れる彼女を押さえつけ、無理矢理脱がそうとシャツを掴むと、服の下から白い肌が現れた。彼女に手袋を取り上げられた指が、彼女の肌に触れる。その瞬間に、身体中の動きが俺の命令を無視してピタリと止まった。喉が、ひくりと鳴る。

体を駆け巡る空腹感。クソ、と泣きそうになりながら思う。ナースチェンカ。君は本当に賢い女だな。今ここで君の望み通り、俺が君の魅力に屈服して君に歯を立てたら満足か。君は痛みに顔を歪め、もしかしたら酷い傷跡を抱えて、下手したら死ぬかもしれないけど、それでも君は満足なんだよな。俺は寂しさと後悔の気持ちでどうにかなっちまって、冬中君のことを思いながら過ごす羽目になり、それどころか、君の名前を頭の中で反響させながら一生を過ごすんだから。

釘付けになった肌から無理やり視線を剥がせば、顔を上げた先で彼女のその瞳には涙が浮かんでいた。俺はしばらくその涙を眺めて、考える。なんで泣いてんだよ。わかってたんじゃないのかよ。それが君の、望みだったんじゃないのか。ゆっくり顔を近づけたら、彼女は小さく縮こまった。怯えてるのか、それともただの反射なのか、モンスターの俺にはわからない。だからそのまぶたに口付ける。涙の味。舌先に甘い痺れが走った。俺はそのままナースチェンカの唇にキスをする。彼女は大人しく口を開けた。甘くて、辛くて、悲しくて、切なくて、頭も、胸も、張り裂けそうだ。俺まで泣いてしまいそうな気がしたから、彼女の首筋に頭を埋めるようにして、そのまま彼女を抱きしめた。

ナースチェンカは何も言わずに、大人しく俺に抱かれていた。そろそろと背中に伸ばされた腕は、そっと暖かく俺を包んだ。

「何かあったんでしょ」

俺の髪を指先で撫でながら、彼女は静かに、ゆっくりと切り出した。その声色に、迷いと、恐怖も、確かにあったのを、俺の耳は聞いていた。

「ハチルちゃん、泣いてたの。覚えてないかもしれないけど。さっきも、こうやって、わたし、ハチルちゃんを抱っこした」

短く、発した言葉をかみしめるように、ナースチェンカは一言一言を染み込ませるように、押し出すように、そう言った。

「食べたかったら食べていいの。わたし、あなたのためにいるんだから。あなたの好きなようにして。それで私は幸せなの」

食べたいわけないだろ。俺が、君を、食べたいわけがない。
歯を立てて、ずぷりとしずめる。温かい血が溢れだして、吐息が、一生懸命息をする音が、すぐ耳元で聞こえる。そういう瞬間の、俺の気持ちを、君は考えたことがあるのかよ。あの瞬間にざわめく自分の中身を、滾る血を、本能的な凶暴性を、抑えられなくなるあの瞬間を、君はわかってないくせに。

「君はマズイから食べない」

苦しい言い訳を吐いた。今すぐその首筋に舌を這わせたいと思いながら、その欲求に生唾を飲みながら、ナースチェンカを腕の中から開放することが出来ずにいながら、俺はそう言った。

ナースチェンカは俺の腕の中であたたかく、やすらかで、だから俺はどうしようもなく泣きたくて。俺は空腹のまま、彼女の腕の中で、彼女を食べるために口を開くことも、彼女の腕を解くこともできずに、死んだみたいに動けなかった。

140512-180619