キャスケット、と、俺の名前を呼ぶ声がした
俺にキャスケットだなんてむちゃくちゃな名前を付けたそいつの笑顔に、とかく俺は弱かった
「お水のみたい」
俺の服の袖をちょいちょい、と引っ張っておいて、彼女はむくれた面でそう言った
思わず、水?と聞き返せば、その女は細い指でテーブルの上に置かれたコップを指差して、あれよ、と短く答えた
「そこのコップ、とってもらえる?」
あまりにも無邪気なその言い方に、俺はパシリかと思わずぼやけば、彼女は急に眉毛を下げて悲しそうな顔をさらして見せる
その顔に思わずどきりとしてしまった俺は、わざと難しい顔をしてその視線を振り切った
「キャスは冷たいわね」
「そんなことねェだろ?お前のわがままがキツくなっただけだって」
冷たくさせるのはお前だろ。言いたかった言葉は結局声にならなかったので、俺はとぼけて笑うしかなかった
彼女に渡そうとつかんだコップから冷たい水が指にはねてかかって、俺は小さく目を細めた
できるだけそっと渡したコップに、ありがとう、と彼女がやけに柔らかい声を出すせいで、俺は軽くめまいさえ覚える、
彼女はまだ、俺が知っている愛しい彼女のままで
「俺をパシリ扱いできんのも今だけだからな」
「ええ、ごめんね、キャス。この体ってすっごく不便で……でも貴方も最近怒りっぽいわよ。妊娠したの?」
「アホか、いちいち言わせんな。お前にフラれたことまだ根に持ってんの!お前のせいだよ」
一瞬反省したのかと思うとすぐまたすっとぼけた表情を浮かべる目の前の女に
いら立ちを覚えながらも、俺は噛みつくようにそう言って見せる
彼女の妊娠ネタは正直うんざりだ。この女、俺が妊娠を喜んでると思ってやがる。
俺たちとは違って、リヴリーにはお気楽な脳味噌が詰まってるから、仕方ねェと言えば仕方のねェことかもしれないのだが。
ふと視線をその大きく膨らんだ彼女の腹に向ければ、彼女は目ざとくそれを察して俺に手招きをして見せた
彼女の腹の中には、子供がいる。
女なのか、男なのか、俺はこいつのことを何も知らない
俺はこんなにも彼女を愛しているのに、この子供は俺と彼女の子供じゃねェからだ
無意識のうちに腹を睨みつけてでもいたのか、彼女は俺に向かって吹きだすと、そんな怖い顔しないでよ、と頭を振った
「触ってみなさいよ。蹴ったり叩いたりするの、判るから」
「俺はいいよ、お前のダーリンに怒られるのヤダし」
そうやってとぼけて一歩引いた俺の手を、いいから、と彼女が強引につかむ
ポン、と無理やり乗せられたそこは、思っていたよりもずっと温かかった
「ほーら、キャスケットよ、ママが名前を付けてあげたの。キャスケット帽子のキャスケット。覚えやすい名前でしょう?」
腹の中の子供に聞こえるように、むしろわざと俺に聞かせるように、彼女はそう言った
彼女が口を開くなり、腹からぽんぽんけるような衝撃が緩やかに伝わってくるのがわかった
「動いてる」
「あたりまえでしょ、赤ちゃんが入ってるんだもの」
そう柔らかく微笑む彼女の声は、ずっとずっと優しくて、温かいものだった
俺は目の前の女の事を、だれか知らない、全くの別人を相手にしているように感じた
彼女とはずっと一緒にいたというのに、彼女がこんな顔をするなんて知らなかったし、思いもしなかったのだ
俺はまじまじと彼女の腹を見つめ、その中に入っているという赤ん坊を見つめ、
それから思い出したように彼女の腹に乗っていた自分の手を引っ込めた
彼女の腹の中に隠されたこの生き物が、愛らしいとは思えなかった
彼女に寄生して生きているこの大きな塊が、愛しいとは思えなかったのだ
声を呑んだ俺に、目の前の女はけらけらと笑った
「こんなのでびくびくしているようじゃ、キャスはいいパパにはなれないわね」
見詰めた自分の掌には、まだぬくもりが残っていた
俺はその温かさに違和感を覚えながら、彼女に尋ねる
「なあ、子供ができるってどんな気分?」
俺の質問に一瞬だけ眉をあげて見せて、それから
そうねえ、と一呼吸おいて彼女は口を開いた
「恋してる気分よ。まだ見たこともない触れたこともないこの子に、私は恋してるの」
恋、か
俺は心の中で、彼女の言葉を繰り返す
それが本当なら、厄介だな、と思った
愛しい彼女を奪い合う相手がまた増えたということだ
それでも心のどこかでは、そういう恋とは全く違うレベルの愛なのだということも、
俺はこの小さな塊にすら勝てやしないだろうということも、もちろん理解していた
生まれてもいない胎児に嫉妬するなんて、どうかしてる
自分自身がバカらしくなって、ふっと頭を振った俺は、無意識のうちに胸ポケットに手を突っ込む
そこにたばこが入っていることを知っている俺の愛しい彼女の指が、俺の手をあわててつかんだ
赤ちゃんの前では吸わないでって、私、言ったでしょう
「ああ、そうだったよな」
そうだった、もう俺は、お前の前ではカッコつけることもできねェんだよな
「忘れてたよ」
忘れてたじゃ済まないわよ、何笑ってんの?呆れたようにつぶやく彼女の口を、
無理やりふさいで、強く強く、痛いぐらいに俺の印を残せたら
たとえそんな事をしたところで、いまさらあいつには勝てやしねェのだという現実は
彼女の腹の中ですくすくと、いまもまだ、俺の目の前で、彼女の血を吸って大きくなっているのだ
「ねェキャスケット」
俺が不甲斐無くも弱った心をようやくのところで支えているというのに、
背中のほうから彼女のほうが泣きそうな声を出すから、俺は思わず眼玉をまわした
彼女がぐずりと鼻を鳴らして、俺は彼女を抱きしめてやりたい衝動に駆られながらも
振り向くことすら出来ずにその場で固まったまま歯を食いしばっていた
彼女が言いそうなことは、なんだか予想が出来ていた
「もし私たちに何かがあったときは、貴方はこの子を守ってくれる?」
あぁ、と俺は心の中でため息をつく
そんなの、そんなの、
そんなの、どうして俺に頼むんだよ
どの面下げて、俺に、
俺を捨てたお前が、どの面下げて他の男の子供を俺に守れだなんていうんだよ
「自信がねェよ」
俺は正直に言った。口が勝手にぼやいていた
彼女は何も言わずにただ鼻を鳴らしていた
「俺はお前を愛してるけど、お前の愛してるもの全部は愛せねェ」
いままでも、これからも。付け加えた言葉は、意地で声にしたようなものだった
だってそうだろ、あまりにも理不尽だろうと、叫び出すのを抑えるのが精いっぱいだった
「そうよね、わかってる。ごめんなさい」
彼女の声はもう、さっき自分の子に話しかけていた母親のそれとは違っていた
俺よりほかの男を選んだ、俺が愛した女のそれだった
「それでも、」
俺は情けなく突っ立ったまま、肩越しに彼女を振り返ろうとして、やめた
「それでも俺はお前を愛してる。お前が俺をどう思おうが、俺はお前を愛してるからな」
背中の向こうでゆらゆらと静かに漂っていた沈黙が彼女のすすり泣きで覆われる前に、
俺はとっととその一歩を踏み出した
いつだって彼女の笑顔が幸せだった。
今だってそうだ。彼女の涙なんか見たら参っちまうと思った
それでも、
彼女の幸せが俺の幸せかと問われれば、
俺はいまだ、自分の幸せを諦めきれないでいるのだ
( 育むのに失敗した )