海の匂いのする潮風は冷たくて、僕は首元のマフラーを握りしめて首をすくめた。空を見上げれば港町は冬の灰色の雲に覆われて、まるで魚を冷やす冷蔵庫みたいだ。
センターサーバーの港町の市場はいつも賑やかで、お魚を買いに来た僕と緑露ちゃんの他にも人がいっぱいいた。人だけじゃなく猫とカモメもたくさん来ていて、大きな船からゆっくり降りてくる網の中にいっぱい詰まった銀色の魚を狙っている。お魚の鱗が光って、猫が鳴くのを、僕は桟橋のところからずっと見ていた。カモメは空を飛べるから猫より有利。だけど猫は空を飛べない代わりに愛嬌を振りまいて、漁師さんからお魚を直接投げてもらう技を持っている。
緑露ちゃんがお魚屋さんと話している間、僕は大きな樽に滑りこんでいくお魚たちを見つめた。ぴちぴちと魚が当たる音がして、その上にざあっと氷がのって、別の漁師さんが小さなそりみたいなものに乗せて運んでいく。あの樽が値段を付けられて、そのまま緑露ちゃんが今選んでいるお魚の隣に並ぶんだ。一匹辺りいくらとか、あっという間に決められて。
僕は一番近くのお魚屋さんのそばまで行って、お店の人が漁師さんを手伝いに行ってしまったのを確認してから、一番端っこの樽の一つを覗いてみた。緑露ちゃんは隣の魚屋さんでイカを見ていたけど、僕が覗いた樽の中には、キラキラした銀色の鱗を持つ大きなお魚が入っていた。平たい尻尾はすべすべで、少し持ち上げたら冷たくて、ぬるぬるした。魚は僕の指から滑って、ぺち、と樽の中に落ちる。水が跳ねて、僕のほっぺたに飛んだ。その時、ふいに、背中の後ろから声がした。
「触ったらダメでしょ」
振り返れば、背の高い女の人が僕を見ていた。こんなに寒いのにタイツも履かないで、白くて長い足が短いスカートと高いヒールで飾られている。モデルみたいにスタイルはよくて、美人で、だけど眠そうな目の下にはクマができていた。寝不足かな。彼女は顔にかかってきた長い髪を耳にかけて、僕に向かって首を傾げた。
「生きてるかどうか確かめたくて」
「ふーん」
生きてた?、と彼女は僕に聞いた。僕は短く首を振る。
「さっきまで、生きてたんだけど」
僕は彼らがあの網に捕まって、樽に詰められて、氷を乗せられて、値段を付けられるところを見てたんだから、間違いないよ。彼女は僕の隣にかがんで、樽の中のお魚を見つめた。
「残念ね。祈りましょ。美味しそうなお魚に」
彼女はそう言って、目を閉じた。その格好は美しかったけど、僕は少し悲しかった。すぐそばで、大きな網がどんどんお魚を樽の中に詰めていく大きな音がする。
「何を祈ってるの?」
「お魚が天国に行けるように」
ふうん。お魚は天国に行けないかもしれないのか。人間に比べたら、何の穢れもない生き物だよ。彼らなら祈らなくても行けるに決まってる。
「もう死んじゃったよ」
「だからさ、大事に頂くの。お魚だってそれを望んでる」
「そんなこと、どうして分かるの?」
「私がお魚ならきっとそう思う」
彼女はそう言って、立ち上がった。
「美味しく食べてほしい」
僕が口を開けて彼女を見上げてる間に、そばを通って行く人々の向こうから、微かに誰かを呼ぶ声が聞こえた。それが彼女を呼ぶ声だと気づいたのは、彼女が声のした方をくるりと向いて、僕に手を振ることもせずに、現れた時と同じように唐突に行ってしまったからだ。
人混みの中に彼女が消える。いなくなって、見えなくなる。ナースチェンカ。確か、昔どこかで誰かが書いた、小説の中の女性。白夜に消える、美しい幻の名前。
樽の中には、まだ彼女に祈りを捧げられたお魚が取り残されてるっていうのに。まだ艶やかな瞳の中には、感情さえ見えてきそうなのに。置いてかれてどんな気持ち? 悲しくないの? 食べて欲しいなんて、そのために捕まったって、ほんとにそう思える? 僕はお魚じゃないし、お魚は死んだからもう答えはわからない。
悲しい気持ちになって俯いていた僕に、いつの間にか戻ってきた緑露ちゃんが背中をなでた。緑露ちゃんは僕が覗いていた樽からお魚を一匹取って、緑露ちゃんがお買い物をするときに必ず持ってくる、お買い物用のバスケットの中にそうっと入れた。
「今晩は、とびきり美味しいディナーにしますわ」
僕は緑露ちゃんを見上げて、頷いた。