ぐずる子どもをなだめるというのは、この上なく面倒臭い作業だ。
むくれて頬を膨らますその仕草も、大抵の男に効いたとしても、生憎だが俺には通用しない。
顔を真っ赤にしたキッシュが俺をキツく睨んで、腕を振り回しながら、どうしてよう!と金切り声で叫ぶのを、俺は目を細めて聞いていた。
「なんでハチルちゃんは今日もいないの!? どうしてよ!」
「大声を出さないで…」
どうしてもこうしてもない。あの男が居ないのはいつもの事じゃないか。
俺の頭はすんなりそれを受け止められるけれども、この子どもにはそれが理解できないらしい。
昨日の夜僅かに顔を見せたあの男が、いつ何処へ消えたのか俺は知らないし知るはずもない。
一晩ちらりと現れて小さく微笑みかけるだけでこんなにも彼女の心を掻き乱していく彼の存在は、四六時中この子の面倒を見ている俺より大きいらしい。
こんなにも俺の手を煩わせておいて、彼女はたまに現れる少し弱気な自滅的ロマンチストに恋をしている。女なんていうのは皆そういうものだ。ゆるやかな絶望すら覚える。この子はまだ幼くても、立派な女なのだ。
黙っておいていった!、と金切り声を上げるキッシュに、俺は彼女のお気に入りの縫いぐるみをグイ、と押し付けてみる。泣き出しそうな顔のまま彼女は乱暴にそれを叩き落として、機嫌の悪さを隠そうともせずにその場に座り込んだ。
厄介だ。と俺の頭はぼんやり思う。子どもの相手は総じて厄介なのだ。分かりきっていることではないか。
床に座り込み、向けられるその小さな背中がその歳にして既に生まれている複雑な乙女心を俺に訴えかける。
それでも俺は煩雑極まる乙女心を具に感じ取れるほど勘のいい男ではないし、この気分屋な子どもの気持ちをわざわざ逐一汲んでやろうとも思わないので、溜め息を吐く事もせずただ小さな背中を見下ろした。
「ハチルなら帰って来ますよ」
「いつ」
「さァ…」
さァじゃダメ!!! また金切り声。一体全体その声がこの小さな体の何処から出ているのか不思議に思う。女は不思議だらけで、男は狼狽えるばかり。狼狽え、ご機嫌を取り、崇拝することによってこのコミュニティは形成される。俺が目の当たりにしているのはこの世界の縮図だ。
小さな未来の女王陛下は、キッ、と勇ましくも俺を睨みつけ、挙句に傍にあった椅子をいきなり乱暴に蹴りつけた。あぁ、この子は本当に手が着けられない。貴女にそっくりだ、女王陛下。
俺は怒りのあまり泣き出しそうなキッシュの腕をそっと取って、小さな女王の傍に跪いた。
顔を覗けば、可愛い顔を歪めた彼女の精一杯の抵抗が、眉間の皺となって俺を睨んでいる。
ああほらまた、その顔が愛しい彼女に似ていると、俺は失礼にもそう思ってしまう。
「そんな事しないで。聞き分けてください」
「いや」
「どうしてそんなにあの男が良いんですか」
何故私ではご満足いただけないのですか、陛下。
俺が言う言葉の意味を、幼い彼女は理解出来てはいないだろう。だからこそ俺は正直にそう言った。ぶんぶんと大袈裟なまでに首を振るキッシュの姿が、クイン様と重なる。女王に同じ質問をすれば、彼女もまた、俺を拒絶するだろう事は容易に想像がついた。俺はこの小さな少女のそばにいる限り、必要以上に、傷心の傷を抉られ続けるわけだ。痛い、だなんて、いまさら思わないが。
「もう、ロムくんなんか嫌い!!」
突っぱねられて振り払われた手で、俺は小さな彼女の頭を撫でた。
自分勝手なのはモンスターの性だ。俺も、この子も、女王陛下も。自分を一番愛して欲しいと望む。ただそれだけの純粋で美しい欲望に、殺されると錯覚するほど強く縛られて生きている。あるいはもしかしたら、ハチルもそうなのかもしれない。
本当はこの子だってわかっているのだ。
ハチルが自分にはコントロール出来ないいきものであることを。このコミュニティの頂上に君臨する女王陛下ですら、彼だけは自分の思い通りにできないことを。
俺が口に出して言い聞かせずとも、彼女はもう既に女なのだから。
その証拠に、彼女はもう俺の手を振り払わない。泣き顔になったその顔を愛しいと思いながら、俺は少女に呟いた。
「ハチルは帰ってきますよ」
「…ぜったい?」
俺を見上げるキッシュの泣き顔。まだ見ぬ愛しい彼女の泣き顔も、これ程いじらしく、強く抱きしめたいと思わせるほど儚げで切ない表情だろうか。恋しい誰かを涙を流して待つ女王の姿などあまりに女々しくて、俺には想像できなかった。でももしかしたら、彼女にもそんな夜があるのかも知れない。だから俺に指をかける彼女の手付きはいつも乱暴で、優しくないのかも知れない。彼女も所詮一人の女であるのだから。
キッシュの涙を指で拭ったら、彼女は大人しく目を瞑った。その姿はまだまだ小さな子供だった。
ハチルは必ず帰ってきますよ、キッシュ。彼はいつだって唐突に現れて、いつの間にか消え失せて、皆の心の中を自分勝手に掻き回していく。それでも彼は帰ってくる。我らが愛しい女王陛下が、命を削ってまで、あの男に一番深い愛を打ち込んだから。
「此処があの男の家ですから」
彼には此処以外に、帰る場所などありません。
ゆっくりと微笑んでそう言えば、キッシュは不安そうに俺を見上げた。
あなたの姉上のお陰ですよ。そう続けたとしても、彼女には嫌味どころか意味すら分からなかっただろう。だから俺は何も言わずにさっと立ち上がって、座り込んでいたキッシュを立たせた。
彼女はもうぐずろうとはしなかった。大人しく立ち上がり、ちらりと俺を見上げる姿。
この子が女王になる頃、あの男はまだ此処にいるだろうか。あるいは、この俺は。
ぼんやりと考えて、曖昧に憂鬱な気分になる。
とぼとぼと歩き出すキッシュの背中。足が重くて持ち上がらない俺。
解っている。
いつまでも聞き分けられないのは、女ではなく、男のほうだ。