Cathie 02

てめェを殺す、と呟いたのは本気だった。ジルに止められてロクに体も動かせねェ状態で、それでも俺は俺を押さえ込もうとする衛兵蜂どもを蹴飛ばそうと暴れながら叫んだ。ハルはといえば、眉ひとつ動かさずに俺を見つめて、いや、正確に言えば俺なんぞ目に入っていないかのようにただぼうっと宙を見つめていた。俺が殺さなくたって、放っといたって死にそうな顔をしていた。それが余計に俺の神経を逆なでした。俺を、キャシーを放っておいて、何の清算もせず黙ってこの世界から逃げ出しそうなこの男が気に入らなかった。
「なんとか言え!!」

俺は吠えた。その場にいた全員が邪魔だった。全員殴り殺してでもハルの胸ぐらを掴んでやりたかった。掴んで、問いつめたかった。お前は俺から何もかも取り上げた、キャシーまで奪ったあげく、そのお前はキャシーを殺した。泣けばいいと思った。泣きわめいて後悔しろ。懺悔しろ。跪いて神に許しを乞え。それでもキャシーは戻ってきやしねェのだ。そうまでしたって、あの子は、もう二度と、

「いい加減になさい!」

喚き叫ぶ俺と、ぐったりと動かないままのハルに、ジルが叫ぶ。荒い息のままぎろりとジルを見上げれば、彼女はそれに臆することなくつかつかと俺の側に歩み寄ると、思い切り俺の頬をはたいた。一瞬意識が飛ぶんじゃねェかと思うような強烈な平手打ちだったが、よろよろと崩れ落ちた俺は口の中に血の味を覚えて漸くいまさらどうにもならねェことを知る。あいつが泣きわめいたって、俺がキレて吠えまくったって、あの子は帰ってきやしねェのだ。理解した瞬間に全身の力が抜けた。どうしよう、と思った。どうしよう。どうしたらいい。あいつ無しで、俺はどうやって生きていけばいい。

「いつまでも子どもみたいなマネしないで!!」

叫んだジルの声色に涙が混じっていた。ハルが漸くはっとしたように顔を上げて、そっと彼女を見つめる。茶番だ。その決まりきった家族愛のみっともない慰め合いの光景に、俺の存在すら組み込まれていることの恐ろしさ。鳥肌がたって、吐きそうになる。それどころかハルは瞳を潤ませた女王陛下にその手を恐る恐る伸ばすから、その生白く、優しい、緩慢な動作が、また俺の怒りを刺激した。

「死んだ嫁より姉貴のほうが大事ってか」

嘲笑気味に吐いた台詞は予想通りハルを怯ませてもジルはそうはいかない。俺を強く睨みつける彼女の目には、軽蔑の色がこもっていた。そんな顔したって怖くない。俺は腹の奥で彼女すら罵る。女王陛下。アンタでさえ弟を守れないのに、そんなナヨナヨした奴がキャシーを守れるわけがなかったんだ。分かりきってたことじゃねェか。

ここに居たら、これ以上あいつの顔をみていたら、また殴りかかってしまいそうだった。ただ頭が熱くて、心臓がすぐ耳元で、爆発しそうなほどうるさく喚いていた。ハルを殴り飛ばして、お前のせいだと怒鳴り散らしたかった。キャシーが死んだのは誰のせいだ?なあ、ハル、お前の愛しい女は、いまどこで何をしてるんだ。答えろ。答えろ答えろ答えろ答えろ、答えろよ。なあ。

でもそれ以上はダメだった。体が熱くなって怒りが先走るほど、体が震えた。キャシーが死んだという事実が、ようやく俺の頭にじわじわと染みこみはじめた。病気みたいに手が震えた。呆然とその手を見つめたら、俺はまだ数えるほどしかあの子に触れてないことに気づいてしまった。キャシー。俺はまだ、お前に、触れていたかったのに。彼女の顔が頭をよぎった。立ってられなくなる、そう思って俺は俺の腕を押さえつけていた衛兵蜂たちの手を無理やり振り払って、足早に歩き始めた。慌てたようなジルの声が、俺の名前を呼ぶ声が、俺の背中を追ってくる。知るもんか。全部終わりだ。あの子はもう、死んだんだから。

***

ジルはキャシーのことを公表しなかった。当然だ。女王の弟がリヴリーに熱上げて憔悴しきってるだなんて知られたら、あの嫌味なジョロウグモが喜ぶネタを提供するだけじゃ収まらない。もちろんロベルタは俺達がとんだ混乱期にあるという情報をどこからか聞きつけ、たった一度だけ会議で楽しそうに「弟さんはお元気?」と嫌味を飛ばした。しかしジルがあっさりとその嫌味をスルーし大人な対応をとったので、彼女の思惑は外れて戦争には発展しなかった。あの時ハルの代わりについていった俺がジルに、「殴ろうか」と冗談交じりに呟いたのを、女王陛下は小さく笑って受け流した。その時彼女の瞳が潤んでいたのを見抜けなかったわけじゃないが、女王陛下の心中お察しして俺も大人しく黙っておいた。どうしようもない弟のせいで、女王陛下すら苦心していらっしゃるご様子だ。

死を公表されなかったキャシーのために、小さな葬式が執り行われた。モンスターがリヴリーに葬式上げるなんてナンセンスだと、俺はキャシーが入った棺が土に埋まっていくのを眺めながら思った。そのナンセンスな葬式に、俺とハルだけが出席した。ジルは彼女の死を悼んではいたけれど、女王蜂という役職柄、出席することができなかったのだ。

彼女の存在を知るたった二人のモンスター。葬式も形だけだ。涙は出なかった。箱を埋めるだけの儀式の、どこで泣けっていうんだ。ハルも同じ気持だったはずだ。俺達は、あの日あんなに狼狽えて、喚いて、叫んで、呆然としたことなんか全部忘れて、なんの言葉を交わすこともなく、ただ呆然とその様子を黙って眺めていた。

城に帰ってきて、大広間でぽつんと一人、窓の向こうを眺めているジルを見た時、俺はなんだかひどく混乱した。ジルが急に一人ぼっちになったみたいに見えたからだ。一人ぼっちにされたのは、俺だったはずだ。どんなに抜け殻状態でも、ジルにはハルがいる。俺に、キャシーはもういない。

ハルはキャシーを失った悲しみでおかしくなっているのだとジルは言った。
おかしくなってる? ヘタレ育ちの坊ちゃんが、おかしくなってるのか。へえ。あれだけキャシーを独り占めしておいて。勝手に、おかしくなってるのか。おかしくなりたいのはこっちの方だ。クソ野郎。
怒りが湧き上がってこないではないが、でもジルにあたったってしょうがない。俺はただため息だけ吐いて、隣に座るジルを横目で眺めた。女王陛下は、以前よりやつれて、疲れた顔をしていた。

「アンタ痩せたな」
「気のせいよ。あの子のせいだなんて言わないで」

俺はまだ何も言ってない、そう言いかけてやめた。彼女がイライラしてるのがわかったからだ。
続け様に彼女は俺の方をちらりと見て、口元にだけ笑みを浮かべて、鼻で笑った。

「アンタは? やけ食いした? 恋に敗れた女の子みたいなチョコレートの食べ方したわけ?」

思わず顔をしかめた俺に、ジルがはっとしたように首を振る。
彼女は伏せた目を悔しそうに歪ませて、ごめんなさい、と消え入りそうな声で言った。

「こんなこと…私、そんなことが言いたかったんじゃないのに」
「いいさ。実際そのとおりだ」

自分の口から出た穏やかな口調に、自分でも呆れる。実際その通り、か。
世界中の女子が、フラれた途端にチョコレートを馬鹿みたいに食う理由が、俺にもやっとわかったよ。
傷心ってのはとてつもなく腹が空くもんな。食わなきゃ、やってられないほどに。

「…キャス、」

キャス、と至極なまぬるく優しい声でジルは俺を呼んだ。その声があまりにも残酷なまでに優しかったので、女ってのは男の心をこうも容易く打ち砕けるものかと思って、俺はぼんやりと彼女を見つめた。

「ハルはあの子を愛してたわ。アンタだって知ってたでしょう」
「俺だってキャシーを愛してたんだ」
「でもアンタはあの子に選ばれなかった」
「選ばれなかったからキレてるんじゃない、俺はアイツを愛してたんだぞ。あの野郎の数千倍は愛してた。俺ならアイツを殺すようなマネさせなかった」
「アンタってほんと聞き分けのない子どもみたい」

ため息を吐くように、でも冷たく突き放すわけではなく、呆れて笑っているような声で、疲れた顔をした女王は言った。

「アンタのそういうところ、私は可愛くて好きよ。アンタには慰めにしか、聞こえないんだろうけどね」

そう言いながらもジルは、どちらかというと自嘲気味に笑った。その笑顔を見て、ぼんやりと哀れな女だなとも思う。彼女の声は、今のハルには届かない。俺にも届いていないのだと、彼女はそれがわかっていて、それでも声をかけ続ける自分を笑っているのだ。俺はジルを眺めて、わかってる、と小さく呟いた。

「強い人だったのよ、彼女。自分が死ぬってわかってて、それでも、怯まなかった」
「強い? ただのバカな女さ。結局自分一人で勝手にいなくなって…赤ちゃん生むからバイバイあとはよろしくか? 自分のことしか考えてねェじゃねェか。自分勝手な女なんだよ。俺を愛してれば、死なずにすんだ。こんなことにはならなかったんだ」

キャシーが死んで、俺達に何が残っただろう。キャシーは死なずにすんだのに、わざわざ死んだ理由が俺にはわからなかった。わかってたはずだ。あの女はわかってたはずだ。ぐるぐる考え始めると、体が熱くなってきた。
キャシー。お前、なんで死んだんだ。俺を置いて、よくもひとりで死ねたな。俺を愛さなかったことを呪う俺を身勝手というなら、自分のことしか考えず、俺を置いて黙って死んだあいつこそ身勝手じゃないのか?

「……アンタは選ばれなかったの。それに置いていかれたのはアンタだけじゃないわ。みんな、あの子が好きだった。それに…」

ジルが、寂しそうにそう言った。だんだん消え入りそうになっていく辛そうな声に、俺はただ乱暴に舌打ちをして、ジルの意図するところを察する。俺や彼女のように、悲しむことも出来ない、小さな命。キャシーと入れ変わるようにして置いていかれた、哀れな子供。

「生まれた子供のことなら、俺は関係ねェ。キャシーとハルの子どもなんざ顔も見たくないしな。父親なんだ、ハルが勝手にすればいい」
「アンタってほんとガキね。キャサリンが選ばなかったのも分かるような気がするわ」
「勝手に言ってろ。キャシーはもういないんだ」

噛み付くようにそう告げれば、ジルは反抗すること無く目を伏せた。
そうだ、キャシーはもういない。実感がまだない。本当に死んでるんだろうか? ハルが俺から彼女を遠ざけるために、そう言ってるだけなんじゃないのか? 葬式の時だって、死体を見たわけじゃない。死んだという話だって、聞いただけだ。まだどこかで、退院の日を待ってるだけで、

「ハルがあんなことになるなら、私、あの子には、生きてて欲しかったわ」

ジルの泣き声が、俺の頭を鈍く打った。
彼女が泣いているのを見るのは久しぶりだった。
溢れ出しそうな涙を、彼女は必死に耐えようとしていた。
ぐずぐずと、鼻を鳴らして、一人小さくすすり泣く女王を、俺は黙って抱き寄せた。

彼女は俺の腕の中で、普通の女みたいに、みっともなく、声を上げて泣いた。
女王であることも、母親であることも、姉であることも、全部かなぐり捨てて、ジルはただひたすら、泣いて、泣いて、泣いた。部屋中に彼女の悲しみがいっぱいになった。俺は彼女にしがみつかれた指先から、ただぼんやりと、でも冷たい空気が体にまとわりつくように、体中の感覚がなくなっていくのを感じた。

ほら見ろ。女王陛下が泣いてる。お前は罪なやつだ。
キャサリン。
スズメバチのルールを、お前は破って、めちゃくちゃにして、
一人だけ、善人面して死んでいった。
今、はっきりとわかったよ。
俺は、それが許せないんだ。

ハルは優しくて、お前を大切にしてくれたか?
その可愛い靴をはいた小さな足で怪物の縄張りをひょいと超える、その禁忌を犯したお前を優しく受け止めて、
一緒なら大丈夫だなんて、愛さえあればなんて、どうでもいい甘やかすだけのセリフを吐いてみせたのか

俺は違うぞ。
俺はお前のために、モンスターになってやる。
ああ、キャサリン。
俺の愛をみせつけてやるよ。

泣き続けるジルの頭に顔を寄せながら、俺は窓の向こうを眺めた。
ただどこまでも広がるだけの灰色の空。その下にあるのは小さな墓地。そこに、小さなキャシーの墓がある。

あそこにキャシーが眠っていることを誰も知らない。
それを知っているのは、俺とハル、そして、
キャサリン、お前だけだ。