水槽の底は、センターサーバーのはずれにある港町から、少しだけ離れた場所の名前だ。ふざけた名前だと思うだろうが、これは歴史上多くの探検家がそうしたように、この土地を見つけた最初の人物が名付けた名前。そして鯉壱は、この名前をかなり気に入っている。綺麗な池と木々に囲まれた、居心地の良い空間。ここだけぽっかりと別の世界に飛ばされたみたいに、最初から完成され、永遠にその姿を保ち続ける、まさに作られた水槽みたいな、完璧な土地だった。

 彼がいつ、この場所を自分のものにしようと決めたのか、俺は知らない。鯉壱が自分のために池を整えたり、寝心地のいい原っぱを作ったり、水面に睡蓮を浮かべたりしたとは思えないが、少なくとも俺が初めてここへたどり着いた時、彼はすでにこの水槽の底の王様だった。

 マダラカガという生き物はトカゲに似ていて、警戒心が強く、身体中に毒を持っているかのような派手なマダラ模様をまとい、相手を威嚇する。多くのリヴリーと同じように、天敵のモンスターから逃げるため、長い尻尾を駆使してとてもすばやく逃げる。動きの俊敏さは他のリヴリーと比べてもダントツだ。モンスターは普通、こいつらを捕まえるのにとても苦労するので、普段は滅多に追いかけない。もっと捕まえやすくて、安全で、美味いリヴリーがたくさんいるからだ。ところが鯉壱は、少々警戒心の薄いマダラカガだった。今思えば、水槽育ちのせいだろう、彼は天敵であるモンスターがすぐ後ろに現れた時も、自分の温水プールみたいに池に両足をつっこんだままお昼寝していて、しかも、無防備なことに、腹を出したまま寝っ転がっていた。

 腹を出してひっくり返っている子供のマダラカガを見たら、モンスターはどうすべきか? 珍しいハロウィンの限定種だ。間抜けなやつだな、とっ捕まえて食っちまおうと思う奴も多いだろう。まぁ俺はむしろ、あっけにとられて固まったんだけど。

 「クッキーを食べたばっかりなんだ」と彼は本当に心底眠そうな声で俺にそう言うと、薄目で俺を見上げ、「僕、逃げたほうがいい?」と尋ねた。

「お前いくつだ?」
「5さい」

 身長150センチのマダラカガはヘラリと気の抜けた顔でそう言い、呆れる俺の顔を見て、ひゃはは、と追加で笑った。俺は今こいつにからかわれたのか? その間抜けな笑顔にさらに攻撃する気が失せる。呆気にとられたというか、むしろ、危ないだろとモンスターの俺が注意したくなるような裏表のなさだ。子供なのかと思ったが、俺の質問に冗談で返すくらいの利発さもあるらしい。

「俺のこと怖くないのか」
「わかんない。だって僕、君のこと知らないもん。モンスターって、あんまり見たことないんだ。触覚があるから、スズメバチ?」

 馬鹿にされた気分の悪さから凄んでみたところで、目の前の少年に効果はない。彼は俺の頭をしげしげと眺めたあと独り言のように言った。腹ペコの時しか食べないでしょ? 水族館のサメみたいに…お腹が空いてる時しか…。やっぱり眠そうな声だ。危機感のない発想。あ、とようやく思いついたように彼は言い、俺を見る。

「僕のこと食べる? 食べるつもりなら、頑張って逃げるよ」

 彼にとっては幸運なことに、俺は腹が減っているわけではなかった。そしてさらに幸運なことに、御察しの通り俺は無差別にリヴリーをぶっ殺して回るのが好きなタイプのスズメバチでもない。そういう派手好きなのもいるけど、俺はできれば悲鳴を聞くのも、血まみれになるのも、勘弁願いたい。なんだよ、思ったより相手を見てんのか?

 ぼんやりと彼を眺めれば、派手な角と尻尾に目が止まる。水に浸かった尻尾のマダラ模様。確かにマダラカガだ。蛍光ピンクのド派手な色をしている。でも性格はアホみたいにゆるい。最初にも言ったがマダラカガっていうのは警戒心が強い生き物なので、何か音がするだけであたりを見回して、俺たちモンスターをそばに近づけることすらさせない奴も多い。いろんなリヴリーを捕まえてきた俺でさえ、こんなにじっくりマダラカガを見たことはない。角だの尻尾だのはツヤツヤしてるが、性格はナマケモノみたいだ。
 こいつ、頑張って逃げてもロクに走れないんじゃないか。だから余裕なフリをして興味を無くさせようとしてる。そこまで思ってから、俺は少年にもう一つ質問をした。

「…マダラカガには毒があるって聞いてるけど、ほんと?」
「あるよ」、と少年は即答した。そしてまた付け加える、「だから、食べちゃダメ」。

 そうか。俺はこのマダラカガに食べられたくないという気持ちがちゃんとあることを確認しつつ、それでも今の所は逃げるつもりが全くないのだとわかると、少しほっとしてその場に座った。アホみたいに寝転がってるリヴリーの横で、俺がアホみたいに突っ立ってるのも変だろ。

 座ると余計、彼の住んでいる世界が素晴らしいものに思えた。森の中に突然開けたこの小さな場所に降り注ぐ緩やかな太陽と心地よく通り抜けていく風。キラキラと光を反射する水面に、小さな睡蓮の花が浮いていた。センターサーバーにこんな場所があるなんて知らなかった。俺が彼より先にここを見つけていたとしても、秘密の場所として大切にするに違いない。
 マダラカガは相変わらず腹を出したまま寝転がり、気持ちよさそうに目をつぶっていた。俺がここにいることなんて関係ないみたいに、まるで気にしていなかった。

「名前は?」
「秘密。初めましての人には教えない」

 少年は俺を見ようともせずに、しかし真面目な声でそう言った。半端なところで警戒心出すやつだな。でもいい心がけだ。俺はあくまでモンスターなんだから、それぐらいしてもらわないと、俺が全く怖くないやつみたいになっちまう。2回目ならいいのか、と聞けば、少し考えてからマダラカガは答えた。「時と場合によるね」。

「だってまだ、僕も名前知らない」
「お前が教えないのに俺が今教えるのはフェアじゃないだろ。2回目だよ」
「それもそうか…」

 怪訝な声を出す彼に笑って答えれば、マダラカガは納得したように唸った。少し間をあけて考え込んでから、空を見上げた少年は、観念したように言った。

「また来るつもりなら…そのときもお腹いっぱいできてね」

 僕食べられたくないけど、逃げるのもめんどくさい。正直者のマダラカガはそう言って俺を見る。だから俺も大事なことを彼に伝えることにした。覚えておけよ、5歳のマダラカガちゃん。モンスターを見たら逃げろ。めんどくさくてもな。

 出しっ放しの腹をしまおうと、俺が彼の着ていたパーカーを横から引っ張ると、マダラカガは一瞬驚いたような顔をした。それから自分の腹を眺めて、「僕のお腹見た?」と怪訝な顔までしてみせる。

「見せてたんだよお前が。それ見たら普通のモンスターがどう思うか考えろよな。マシュマロみたいな腹しやがって」
「僕マシュマロは焼いたやつが好き」

 脈絡なく彼はそう言って、またひゃははと呑気に笑った。本当にやる気を削がれる笑い方だ。そうして笑いながら、寝転がったあたりの手の届く範囲の草をむしりはじめた少年を、俺はどうしてやるべきだろう。お前一人か? ここで何してる? 俺が食わなくても、そんなんじゃすぐ他のモンスターに食われちまうぞ。言いたいことはたくさんあったが、口から出てきたのはため息だけだった。何言ったって無駄そうだなと、心のどこかで俺はもう気づいていたのだ。今思えばね。だから俺はミルクティー色の髪を見下ろしながら言った。

「一つ教えといてやる、モンスターもリヴリーの好き嫌いをするんだ」
「マダラカガ嫌いなの?」
「毒があるんだろ、そう言ったじゃんか。毒があるやつは食べないよ」
「そっか、そうだった」

 俺の言葉に、思い出したように少年は繰り返した。「そっかそっか」。安心したのか彼はまた瞼を閉じて、鼻先をくすぐる風を吸い込むように深呼吸した。

「はあ、毒があってよかった」

 なぜか満足げに呟く彼に、今度はつられて俺も笑うしかない。

「そうだな。毒があってよかったな」

 繰り返された俺の言葉に、今度は鯉壱は笑わなかった。なぜならもう彼はそのときにはすでに眠りに落ちていて、すやすや寝息を立て始めたからだ。信じられねえなって呆れたのを覚えてるよ。それから、可愛いなって思ったのもこれが最初だ。だから俺は少しだけ彼のそばにいて、それからもう一度改めて水槽の底に来ることにした。それが鯉壱と俺の最初の出会い。俺たちが言葉を交わした最初の日で、今思えばたぶん、鯉壱が最初に緑露の目を盗んでクッキーを動けなくなるまでたらふく食べた日だ。この日以来鯉壱がクッキーの量を制限されたと聞いたのは、ずっとずっと後になってからだった。