今日は元気がないね、と、顔を覗き込んでくる鯉壱が楽しそうにニヤついたのを横目で見て、なんとなく釣られて笑った。
彼は今日1日、とにかく忙しくうろちょろしていた。クッキーを探したり、トウモロコシの皮を剥いたり、庭のミントを摘んだり、レモネードを作ったり……。でもそのうろちょろにも、ようやくひと段落ついたようだ。テーブルに突っ伏した俺に声をかけてきた鯉壱は笑っている。細々した作業を俺が手伝おうとするのを、いちいち、いいんだよ!、と制し続けた鯉壱。ようやく俺の様子を気にする余裕ができたのか。「鯉壱が張り切ってるの、ここで見守ってたんだよ」。顔だけ向けてもごもごと口を動かしたら、彼は俺の真似をしてテーブルに頬をくっつけた。目の前でむに、と柔らかく形を変えるマダラカガの頬。可愛い奴め。
「僕、いろいろできるでしょ」
鯉壱が誇らしげに笑う理由はなんとなくわかる。今日は特別なのだ。なぜなら緑露がいないから。普段、この小さいマダラカガは、自由気ままにクレヨンを握ったり笛を吹いたり庭に出て池に足を突っ込んでみたりしているけど、今日は朝早くから「やることリスト」を片手に握りしめ、そして課されたタスクを着々とこなした。トウモロコシもミントもレモネードもそうだ。ひとつ終わったら、達成感があるのか、リストにいちいちチェックを入れていく。はあとかふうとか言いながら、小さい手で汗を拭う。かわいいね。俺はそういうのを今日1日ずっと眺めていた。いいことだ。気持ちいいよな、ひとつひとつ、何かを片付けていくのって。
緑露は年に一度の里帰りに出かけている。彼女の「お里」については、はっきり言って謎だ。特定の家族がいるわけでもないし、生まれた場所があるわけでもないそうだ。ポフがどこから来てどこへ行くのか…あまり多くのことは知られていない。あんなにでかいのに、俺は他に緑露みたいなポフを見たこともない。だが緑露は、「みな、そこそこに大きくなる」という。年に一度、ポフたちは「里帰り」と称してどこかへ集まり、「たわいもない世間話」と称した緻密な情報交換をするらしい。緑露くらい経験豊富なポフたちが各地から集まって、その時間を有益に使えば、それは世界中から知識が集まる重要な会議になりそうじゃないか? 解決できそうにもない難しいテーマを真剣に討論する、でかいポフ達を思い浮かべてちょっと笑う。緑露は16かそこらの子供だ。本当に「たわいもない世間話」をしてる方がずっといい。
緑露からその話を聞いた時から、こうなるだろうということは分かっていた。鯉壱は普段は緑露に何もかもを頼りっきりで、こういう日々の暮らしを豊かに過ごすためのお仕事についてはまるで手をつけてこなかった。いわゆる家事って奴のかけらを、鯉壱は今日、少しずつ堪能したわけだ。緑露ちゃんがいないから今日は僕がやらなきゃ、という使命感めいた気持ちなのかもしれないし、やってみたら意外と楽しいなあ、という5歳児並みのゆるい感情でこなしたのかもしれない。しかしどちらにしろ、鯉壱は終始にこにこしている。今、俺の目の前にいる間もだ。鯉壱はやればできる子だ。そう、誰かがきちんとサポートさえしてあげればね。
「僕、けっこう今日頑張ってるよ」
にこにこしながら、鯉壱は言う。自己申告してきてる。18歳とは思えない純真さ。可愛いね。俺は体を起こして、改めて鯉壱を眺めた。服には所々濡れたような染みを作っているけど、いまのところ怪我はしてない。不器用な鯉壱にしては上出来だ。俺の仕事も上出来。緑露から頼まれたのはたった一つ、「怪我だけ気をつけてくださいね」。今の所は大丈夫です、緑露さん。そう、今のところは。
午前中のうちにすっかり分かったことだが、鯉壱はやることはやるが、やったらやりっぱなしで次の任務に移ってしまう。例えば剥いたトウモロコシの葉をあちこちに放置するとか、剥いた方だって適当に机の上に積んでおくとか、そういう具合で。「僕一人でできるから」と俺の手伝いを一切受け付けようとしない鯉壱が作ったもさもさの葉っぱの山を片付けたのは俺だ。ミントを積みにでかけた鯉壱のあとを追いかけたら、マダラカガがおやつにアイスを食べながら作業したのかあちこちアイスの雫が落ちまくっているし、これまたなぜか泥まみれで放り出されていたバケツや軍手やその他の道具を、洗い流して片付けて、綺麗にしたのも俺だ。キッチンに向かった鯉壱を追いかけて、レモネードを作るための計量カップを取ろうと脚立の上で危なっかしくも一生懸命に手を伸ばしている彼を慌てて支えたのも俺だ。ついでに言えば、鯉壱は手にしたその計量カップを、俺の頭の上に落とした。
頑張ってる。鯉壱も、俺も。
「ハチコ大丈夫?」
疲れた?、と声色を落とす鯉壱に、いいんだよ、と微笑み返す。だって鯉壱も頑張ってるもんな。
「食器洗っちゃおっかな?」
「無理しないで~」
「無理じゃないよ」
立ち上がって、水槽の底のちいさな王様はキッチンへ向かう。ママはいつも鼻歌を歌ってたんだよ、ってぼやきながら、鯉壱は包丁を取り上げて目を輝かせた。僕の歌聴きたい? 俺は返事の代わりに小さくうなずいた。立ち上がって包丁を取り上げることもできたけど、まあそれは、マダラカガの自尊心を育てるのにはよくないかもしれないからとりあえず座ったまま。ただ鯉壱がいつもより2つくらい高い声で歌を歌い出したとき、やっぱり自然とため息が出た。疲れてるとか、呆れてるわけじゃないぜ。ただちょっと、こういうのもたまにはいいかなって思ったらなんとなくため息になった。鯉壱、はやく包丁を置いて。俺の祈りは通じず、鯉壱は楽しそうに歌っている。だから俺もただくるくる回るマダラカガを眺めるだけにした。それがいい。
緑露が早く帰ってくるのが、まあ、一番いいけどね。