「悪い人から逃げてきたの?」
肩で息をして、ろくに返事も返さない俺に、ナースチェンカは笑えるほど真面目な顔をしてそう聞いた。
違うよ、と言いたくても声にならない。違うよ、違うんだと、言いたかったけどどんなに頑張っても言葉に出来なかった。
喉の奥から吐き出されるのは酸素を使いきった空気と、それを吐き出すための喘ぎ声。
頭の奥を冷やすために吸い込んだのに全く役に立たない冷たすぎる外気が恨めしかった。
吐き出す息が白い。凍えるような冷気がじわじわと体に染みこんでいく、それだけで、たったそれだけで、頭がおかしくなりそうだった。
息を短く吐き出す度に、気持ちの悪い汗がじわりと肌を伝う。
吐きそうだ、と俺は思う。吐かせてくれ。とにかく吐き出したい。気分が悪い。
げほげほと大きく咳き込んだ俺の背中に、ナースチェンカが不安そうな顔で手を回した。
「大丈夫? しっかりしてよ」
大丈夫なんかじゃないししっかりしたくもない。お前は勝手だなナースチェンカ。このままぶっ倒れて気を失いたいぐらいだ。
俺は汗で湿った手で彼女の腕を払って、でもよろめいてすぐそばにあった壁に寄りかかった。
寒さで体が思うように動かない。情けねえな。手が震えてる。
「ハチルちゃん、!」
「…大丈夫だから、」
ほっといてくれ
頼むからそばに来ないで
言葉にならない。舌がうまく動かない。頼むよナースチェンカ。君がいると苦しいんだ。
声にならないから念じるしかなかった。頭の中がガンガンする。一人にしてくれ、いい子だから、俺の目の前から消えてくれ。
苦しい。喉が渇いてる。息をする度に肺が熱くなる。体中で心臓が鳴ってる。痛いぐらい、うるさい。
ナースチェンカの細い体。華奢な腕。白くて綺麗な肌。心配そうに俺に向かって伸ばされる指先。
どんどん鼓動が早くなるのが聞こえる。喉が引き攣る。あァ、クソ、君がそうやって、俺に、勝手に触るからだ。
「…ナース、チェンカ、…放して、」
「何? どうしたの?」
囁くような俺の声を聴こうと、彼女はしていたマフラーをとって俺の口元に耳を寄せた。
彼女の白い首筋。肌の下を流れる血管の音さえも聞こえてきそうなぐらい、すぐ近くに。
喉が乾いてる。寒空の下、凍えそうな俺は、君とたった二人きり。
「…どうしたらいい」
「なに?」
「死にそうなんだ」
君が勝手に、都合よく、俺の前に現れるから。
「腹が減って死にそうなんだよ」
一瞬目を見開いた彼女の体を引き寄せて、首筋に歯を立てるのに、一秒も要らなかった。
ナースチェンカの黒い髪がふわりと柔らかく揺れて、その時にはもう、ただ単純に、頭のなかは真っ白で、空っぽで。
「いっ…」
短い悲鳴。耳元で、溶けるような嗚咽。彼女の指先が、俺の腕に食い込んだ。
だけどそうやって抵抗した彼女の味が口の中に広がる時には、もう、俺はあっさり後悔していた。
やっぱりダメだ、ダメなんだ、この娘じゃ。
口の中に広がる、甘ったるくて、むせ返りそうな味。
甘すぎる。この娘はいつも、俺にとって甘すぎる。
子供が風邪の時に飲むシロップみたいで、気持ち悪い。必要以上に水分を飛ばしたみたいな、濃すぎる、ナースチェンカの血液の味。
チョコレートみたいだ。人工甘味料で味付けされた、マズいチョコレート。
「…っ、げほっ、」
「…やだ、…ハチルちゃん、」
思わず咳き込むぐらいマズかったのに、唇を拭った指は無意識に舐めた。
何も知らないナースチェンカ。
俺に噛まれる度に、そうやって首筋を抑えて。そうやって苦しそうに顔を歪めて。
何度目だ。こうやって、わけもわからないまま、君を噛むのは。
よろめいた俺を支えて、心配そうに俺を見つめるナースチェンカの顔を、俺は見れない。
俺だって食べたいわけじゃない。
だけど今はさ、君が勝手に、俺の前に現れるから。
本当は分かってる。
俺が食べたいのは君じゃない、君じゃないんだ。
「…もうそろそろやめなよ、クスリ」
咳き込みながら、でもやっとの思いでそう吐き捨てれば、噛まれた首筋を抑えたナースチェンカが呆気にとられたまま俺を見ていた。
恐怖と動揺、それでも俺を心配するその目は、嫌になるぐらい、さっきのツユキと同じ。
ずるずると地面に座り込んだ時にはもう眼の奥が熱くて、すぐにでも涙がこぼれそうだった。
俺はツユキを噛んだんだ。
じわりじわりと、頭が冴えてきた。
彼女の血のおかげで、俺は漸く俺が一体彼に何をしたかを思い知る。
俺は彼に何をしたんだ。あの子だけには、こんなことしたくなかったのに。
心臓がまた痛くなってくる。鼓動が早くなって、体が震える。
そうか? いつかこうなるんじゃないかって、心の何処かではちゃんと分かってたんじゃないのか。
お前とあの子は違うって、いつも言い聞かせてたんじゃないのか?
それなのにあの子に甘えて、お前は傍に居たがった。お前はあそこに、居ちゃいけなかったのに。
嫌だ。考えたくない。だけどツユキの顔が頭から離れない。なんだか気分が悪くなってきた。吐きそうだ。
俺があの子から奪った何かを、吐き出してしまいたかった。
痛くて、怖かっただろうに。それなのに、あの子は。
あんな風に、笑って
「寒いよ」
俺は膝を抱えて喚いた。吐いた息が白い。
体中が凍えそうなぐらい冷たい。思う通りに動かない。
体も、頭も、心もだ。
戻りたくない。モンスターなんかに戻りたくない。
「冬なんか嫌いだ」
子供みたいに泣きそうな声をあげて、頭の中はパンクしそうで、
でも、それでも口の中には、まだ、めまいがしそうな、甘美な血の味が残っていて
こぼれ落ちてきた涙が思っていたより熱かったから、俺は余計に泣いた。顔を覆って、声を殺して、一人で勝手に泣いた。
空は相変わらず暗くて、空気はずっと冷たくて、俺は死にそうなぐらい腹が減っていて、頭はガンガン痛み、後悔と懺悔と失意と絶望がぐるぐる回っていたけど、
それでも溢れてくる涙が止められなくて、俺は泣き続けた。
ナースチェンカは泣きだした俺を見つめ、そっとその隣に座り込んだ。
やめてくれ。放っといてくれって、言ってるだろ。
それなのに彼女は俺の顔を覗きこんで涙を勝手にキスで拭ったりするから、そんなんじゃない、そんな事して欲しいんじゃないんだと、俺は彼女の腕を振り払う。
少し切なそうな顔をした、彼女の気持ちがどうでも良かったわけじゃない。
だけど、ナースチェンカ。わかって。君が今俺に何をしたって、俺は君のことを考えてられないんだ。
「私、おクスリやめようかなあ、ハチルちゃんがやめろって言うなら。ねえ、もう、泣かないで」
何故か自分まで泣きそうな声を出して、彼女は何か言わなくちゃとでも言うように声を絞り出した。
俺に振り払われた腕で、それでも俺に触れようと、戸惑いがちに伸ばされる腕が、背中に伸び、引っ込められて、結局俺の膝に触れる。
ぎこちなく、それでいて必死な指先。俺はますます泣きたくなる。
俺に噛まれた首筋の傷跡、まだ、痛むはずなのに。
ナースチェンカは俯いて、ただ俺の左手の指を、控えめに握った。
あの時のツユキの、やわらかくて、でもやっぱりどこかぎこちない笑顔が、まだ、頭から消えない。
その一方で、俺に触れるナースチェンカの指先を感じてる。
最低だ。何もかも最低。
君のそばにいながら、俺はずっとツユキのことを考えてる。
君に優しくされたら、俺はどうしたらいいんだよ。
放して、ナースチェンカ。
俺を放してくれ。
許して。
ナースチェンカの体温を感じながら、情けない俺は涙を止められなくて、
そのみっともない嗚咽が口からこぼれてただ地面に落ちていくのを、
どうすることも、できなかった。