自転車の後ろ

 空気入れが壊れているのかもしれない、と鯉壱は思った。一生懸命レバーを押しても、ぷしゅう、と腑抜けた音がするばかり。もしかしたら、自転車のタイヤに穴が空いているんじゃなくて、空気入れの方が壊れているんじゃないかと。「こっちが壊れてるんじゃなあい?」と呟けば、タイヤを触っていた蜂散が、黄緑色の瞳で鯉壱の方を見た。

 物置の中で埃をかぶっていた赤い自転車は、鯉壱が水槽の底に来たばかりの頃に友人がどこからか持って来たものだった。その頃、鯉壱は一人で家の中でじっとしているのが好きだった。おかげでこの自転車は物置にしまいこまれ、さっき蜂散と鯉壱が見つけるまで存在を忘れ去られていた。鯉壱の古い友人で、彼の健康を気遣い、この自転車を持ってきたのは、みかみという男だった。彼は「太陽の下で遊ばないと、紫色のキノコが生えちゃうぞ」と鯉壱を脅して、なんとか自転車に乗せようとしたが、マダラカガはそれを断固拒否した。そして現在鯉壱が見るところ、鯉壱が思った通り、日陰に封印されていた自転車にキノコは生えていなかった。

 「あの頃は」と鯉壱は呟く。「ママがいなくなったばっかで、僕グレてたんだよ」。 「グレてたのか」、と鯉壱のぼやきを聞いた蜂散は笑いながら繰り返す。彼は自転車のそばにしゃがみ込んで、タイヤやらサドルやらブレーキやらを確認しているところだった。蜂散はいつも白い手袋をつけているが、今回ばかりは汚れてしまう前に外していた。ほこりなのか、オイルなのか、ところどころ黒くなった彼の手を何とは無しに眺めながら、鯉壱は「うん」、と短く返事をする。タイヤに異常があるわけではなく、空気入れに問題があることがわかると、蜂散は立ち上がり、錆びたサドルをバコン、と叩いた。カビ臭い匂いとともに埃が広がるのを見て、鯉壱は顔をしかめる。蜂散は眉を上げながら、短く、「乗れんじゃない」と結論づけた。

 「ほんとに?」訝しげに鯉壱は言う。「僕が乗ったら壊れない?」「空気は抜けてるけど、あとは大丈夫。ほんとに全然乗らなかったんだな」チリン、と小気味良くベルを鳴らして蜂散は言う。感嘆と呆れの混じった、ちょっと楽しそうな声色に、鯉壱は「乗らなかったんだよ」とわざと繰り返した。「グレてたからね」と蜂散はまた眉を上げて楽しそうに笑う。何が楽しいのかよくわからないけど、なんだかちょっと癪に触る感じだ、と鯉壱は思った。「それとも、乗らなかったんじゃなくて、乗れなかったのかなァ」。ニヤニヤと、ハンドルを揺らしながら蜂散が笑ったので、ハチコのそう言うところがたまにちょっとムカつく、と鯉壱はもう一度思った。僕をバカにしてる。僕より運動神経がいいからって。「僕、乗れるよ」と口に出せば、思ったより強めな声が出る。ムキになる鯉壱の声を聞いて、蜂散は、今度は屈託のない穏やかな笑顔で、「見せて」と微笑んだ。

***

 「ちゃんと持っててよ」「ハァーイ」。後ろ側からのんびり響く蜂散の気の抜けた声に、鯉壱はちょっと不安になる。なにせ自転車に乗るのなんて初めてだ。蜂散に錆びついたサドルを一番下まで下げてもらっても、鯉壱の足はペダルを漕ぐのにやっと届くくらいだった。みかみも、どうせくれるならマダラカガ用の小さい自転車にしてくれればよかったんだ、と鯉壱は思う。神様なのに、なんかそういうところは抜けてる。みかみ、元気かな。どこで何をしてるんだろう。どっかで僕みたいに、試練に直面して、困ってないかな。

「ゆっくりな、急に漕いだらコケるかも」
「空気抜けてるのに走って大丈夫なの?」
「平気だろ、ちょっとだけなら」

 自転車を支えてくれているとはいえ、蜂散は相変わらず適当だ。せめて後ろを持ってくれてるのが緑露ちゃんだったら、と思わないでもないが、でも、乗れるって言っちゃったしな。後悔し始めたらきりがない。水槽の底は舗装されたアスファルトの道なんてないし、なんなら草だらけだし、すぐそばに池もある。ガタガタの道を行かなきゃいけない。赤い自転車は数年ぶりに目覚めたばかりで、タイヤの空気も十分入れられなかった。不安な点が勝手にどんどん鯉壱の頭の中に湧き上がり、心臓がひっくり返りそうになる。ひとりで乗らなければならない。転んだら、怪我するかもしれない。でもやらねばならない。乗れると言ってしまった以上は。

「ゆっくりでいいから、最初の一歩を強めに漕げ」

 すぐ後ろから蜂散の声がして、鯉壱は彼の方を見た。白と黒の癖っ毛の隙間から黄緑の瞳が光る。ドキッとして下がった鯉壱の眉毛に、きっと蜂散は気づいていない。

「僕、できるかな」
「できるさ。みんな、最初が一番怖い」
「みんな?」
「そうだよ」

 微笑む蜂散のギザギザの歯に、鯉壱は視線が釘付けになる。ハチコはさ、怖いことなんか、何にもなさそうな顔してるのに。

「踏み込んで前に進んでる間に、もう一歩前に足を出せ。その繰り返し。オーケー?」
「うん、でも、持っててよ」
「もってるよ」

 何度も何度も念を押せば、蜂散はすぐ隣で、素直に頷いた。ずるいよなあ、と鯉壱は思う。簡単そうに言うんだもん。僕は心臓がドキドキしてるのに。

「ちゃんと持ってる」
「離しちゃダメだからね」
「わかったよ」

 相変わらず楽しそうな声で、蜂散は言った。しかたない。もうここまできたらやるしかない。鯉壱は前を向いて、深呼吸をひとつした。