murmur 擬リヴ小説の過去ログ 見てて、どうしたの?鯉壱も蜂散さんもめちゃくちゃ変! と思ったけど、変なのはお前だよ…と心の中の蜂散さんが言った more ガキのころの自分が狂ったように書いていたギリヴ小説とは一体なんだったのだろうか なぜあんな勢いで書けていたのだろうか よくわからないけど、読んでみると、漠然と逃げ出したかったんだな〜という印象がとてもある すぐ死ぬとか死にたいとか言ってるもん 不安だったんだろうな すべてが いつまでも死にたがっているのは嬉しくないし、歳を取れば取るほど大したことじゃなかったんだなって思える でも当時のインターネットは私にとって、自由に死にたがれるというか、死にたいようって好きに言っていられるいい場所だったんだなあと、そんなことを思った ぬるくてやさしくて魅力的な場所だった 目に見えない広大な広さと誰にも見つからない心地よい自由と孤独があって、それでいて箱庭の中のような安心感と、いつでも近くに仲間がいる感覚もあった 私がああいう話を書いて、それを残せておけたのは、当時のインターネットの雰囲気が反映されていると思う 居心地が良かった 変わった人しかいない、安全な場所、という認識だったのだと思う だから自由に過ごせた 結果残ったのが恥ずかしくなるような文章でも、一周回って愛しいと思う 一生懸命だった それを覚えている 「死にたい」はオーバーで、ほんとは「いなくなりたい」「逃げ出したい」だったかもしれないけど、それが本当の気持ちだったからこそ、誰かに打ち明ける勇気はなかった だから少し曖昧にして、物語の中で言わせてたんだろう (まわりの人は、私が大袈裟な言葉を使うことに気づいていたと思う 「言葉をうまく使いすぎると、自分で自分を騙すことになるぞ」と言われたこともある 当時はよくわからなかったけど、「自分の気持ちだけで作った言葉で世界を見るな」とか、「大袈裟な言葉を使うことでいろんなことが見えなくなって、より大袈裟な気持ちになるから気をつけろ」っていうことだったような気がする) 昔の文章を読むと、その拙さと、迷いが見てとれる わたしはずっと、どうしたらいいかわからなかったんだと思う わからなかったから書いてた わからないなりに、書いて理解しようとしていたんだ その必死さが、愛しくなる インターネットは変わった SNSのおかげでよりみんなと近くなったし、ずっと見てる/見させることが大事になったし、それから抜け出しにくくなった そして大袈裟な言葉が増えた 大袈裟じゃなく、必死なだけかもしれない でもそうじゃなくて煽りたいだけかもしれない 見えないものが多くなって、見えてるものも本物かどうかわからなくなった もちろん私も変わった もう、ただいなくなりたいとは思わない 結果的にはいまはSNSからはいなくなってしまったけど、長い時間をかけて仲良くなったインターネットの友人たちを心配させたくないし、楽しませたいし、すごいって思ってもらいたいし、でもそういうの全部関係なく書きたいものを書きたいって思う自分もいる システムや環境が変化する、だから自分も書きたいことが変わるし、書きやすいところへ行く 今の私が昔の話を見て、変!って思うのは、自分のなかでさまざまなものが変わったからだろう 時間が経つと、変わっていく 当たり前のことだし、それ自体は良いことでも悪いことでもない 私はまだ、変わってくのが寂しい いい面も悪い面もある でもそれも楽しいね、ってまだ言えない 楽しむだけの余裕はまだない 私はいつも、流れるままに環境に適応してるだけだ 環境が変われば、狼狽える ああこっちはもう違う、あっちも違う、どうしよう、わかんないよ、と行っては引き返す 不安なまま、貝殻を探すヤドカリみたいに自分に合う場所を探し続ける でも昔ほど怖くない まあ怖い時もあるけど、昔は変わることさえ嫌だと思って受け入れられなかったから、それほどじゃない 流れてきた先で、自分でできるだけのことを自分の手で変えている そうしていつの間にかここにいる これを続けるうちに、楽しいと思えるのかな? なったらなったで、寂しいと思えなくなった自分が寂しいって思いそうな気がする 欲張りなんだよなあ せめていい方に変わっていくといいよね もし悪くなっても、良くなるように頑張れるといい それが楽しいかはわかんないけど、そうしたいと思う 世界も、自分も、つながっているからね close wavebox 2026/07/29 edit
murmur
擬リヴ小説の過去ログ 見てて、どうしたの?鯉壱も蜂散さんもめちゃくちゃ変! と思ったけど、変なのはお前だよ…と心の中の蜂散さんが言ったガキのころの自分が狂ったように書いていたギリヴ小説とは一体なんだったのだろうか なぜあんな勢いで書けていたのだろうか よくわからないけど、読んでみると、漠然と逃げ出したかったんだな〜という印象がとてもある すぐ死ぬとか死にたいとか言ってるもん 不安だったんだろうな すべてが
いつまでも死にたがっているのは嬉しくないし、歳を取れば取るほど大したことじゃなかったんだなって思える でも当時のインターネットは私にとって、自由に死にたがれるというか、死にたいようって好きに言っていられるいい場所だったんだなあと、そんなことを思った
ぬるくてやさしくて魅力的な場所だった 目に見えない広大な広さと誰にも見つからない心地よい自由と孤独があって、それでいて箱庭の中のような安心感と、いつでも近くに仲間がいる感覚もあった 私がああいう話を書いて、それを残せておけたのは、当時のインターネットの雰囲気が反映されていると思う 居心地が良かった 変わった人しかいない、安全な場所、という認識だったのだと思う だから自由に過ごせた
結果残ったのが恥ずかしくなるような文章でも、一周回って愛しいと思う 一生懸命だった それを覚えている 「死にたい」はオーバーで、ほんとは「いなくなりたい」「逃げ出したい」だったかもしれないけど、それが本当の気持ちだったからこそ、誰かに打ち明ける勇気はなかった だから少し曖昧にして、物語の中で言わせてたんだろう
(まわりの人は、私が大袈裟な言葉を使うことに気づいていたと思う 「言葉をうまく使いすぎると、自分で自分を騙すことになるぞ」と言われたこともある 当時はよくわからなかったけど、「自分の気持ちだけで作った言葉で世界を見るな」とか、「大袈裟な言葉を使うことでいろんなことが見えなくなって、より大袈裟な気持ちになるから気をつけろ」っていうことだったような気がする)
昔の文章を読むと、その拙さと、迷いが見てとれる わたしはずっと、どうしたらいいかわからなかったんだと思う わからなかったから書いてた わからないなりに、書いて理解しようとしていたんだ その必死さが、愛しくなる
インターネットは変わった SNSのおかげでよりみんなと近くなったし、ずっと見てる/見させることが大事になったし、それから抜け出しにくくなった そして大袈裟な言葉が増えた 大袈裟じゃなく、必死なだけかもしれない でもそうじゃなくて煽りたいだけかもしれない 見えないものが多くなって、見えてるものも本物かどうかわからなくなった
もちろん私も変わった もう、ただいなくなりたいとは思わない 結果的にはいまはSNSからはいなくなってしまったけど、長い時間をかけて仲良くなったインターネットの友人たちを心配させたくないし、楽しませたいし、すごいって思ってもらいたいし、でもそういうの全部関係なく書きたいものを書きたいって思う自分もいる
システムや環境が変化する、だから自分も書きたいことが変わるし、書きやすいところへ行く 今の私が昔の話を見て、変!って思うのは、自分のなかでさまざまなものが変わったからだろう 時間が経つと、変わっていく 当たり前のことだし、それ自体は良いことでも悪いことでもない
私はまだ、変わってくのが寂しい いい面も悪い面もある でもそれも楽しいね、ってまだ言えない 楽しむだけの余裕はまだない 私はいつも、流れるままに環境に適応してるだけだ 環境が変われば、狼狽える ああこっちはもう違う、あっちも違う、どうしよう、わかんないよ、と行っては引き返す 不安なまま、貝殻を探すヤドカリみたいに自分に合う場所を探し続ける
でも昔ほど怖くない まあ怖い時もあるけど、昔は変わることさえ嫌だと思って受け入れられなかったから、それほどじゃない 流れてきた先で、自分でできるだけのことを自分の手で変えている そうしていつの間にかここにいる これを続けるうちに、楽しいと思えるのかな? なったらなったで、寂しいと思えなくなった自分が寂しいって思いそうな気がする 欲張りなんだよなあ
せめていい方に変わっていくといいよね もし悪くなっても、良くなるように頑張れるといい それが楽しいかはわかんないけど、そうしたいと思う 世界も、自分も、つながっているからね
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