むかし誰かが言っていた。
心の中には虫がいて、気持ちを動かしたり状態を悪くしたりする。
弱虫な人の心の中には、弱虫が住んでいる。
「もう無理」
と、ハチルがぐったりした声で言った。あたしはムッとして、彼の髪をぎゅっと掴んでそれから放した。一瞬痛がる素振りを見せた彼だったが、本当に限界なのかもうやめろと手を上げることもしない。
チッと乱暴な舌打ちを吐き捨てて、あたしはそのままハチルの胸にぼすりと倒れこむ。耳のすぐそばで弱虫のハチルの心臓がドキドキ言っているのを、あたしは心の中で、うるさい、と思う。
「お前、いい加減、手加減ってものを覚えたらどうなの」
あたしの背中にそっと腕を回しながら、切れ切れの言葉でハチルが呻く。
手加減なんかしない。死ぬその寸前まで追い詰められたお前が見せる、苦しくて辛そうな顔が好きだから。噛みついた腕の傷に舌を這わせたら、痛いって、とハチルは疲れ果てた声でそう怒った。
「もうよせ」
「いや」
「何でなんだよ」
問われても、理由はない。
嫌だから嫌なんだ。てめェは何一つ分かっちゃいない。
一呼吸ごとに、ハチルが溜息を吐くごとに、あたしの頭も上下した。投げ出された髪がぐちゃぐちゃになって、ハチルの肌に張り付いていた。
頬を寄せて、その熱を確かめる。彼が確かにそこに居ることを知覚させる何かが、いつもあたしには必要だった。
「ハチル」
「なに」
諦めるように彼は呟く。だからその口を塞ぐ。呼べば返事を返すその声に、親しみというよりももっと強く強烈な渇望と切なさを覚える。いつだって焦ってるのはあたしの方だ。ハチルの肌に傷を残す理由。そこに、この男の目に確かにあたしがいたことの証拠。寄り添い、肌を重ねた証拠。独りよがりの行為じゃなかったって、彼もそれを望んでいたって、そう思い込むための。全てはこの理由の分からない苦しさから、逃れるための行為だ。ハチル、お前を愛すことさえも、きっと。
「泣いてるの」
目を細めて、ハチルが優しい声を出す。頬に伸びてきた手を振り払って、首に抱きつくと、そのまま首筋を齧った。ハチルが耳のすぐ後ろで低く苦しそうな呻き声をあげる。体がこわばって、あたしを抱きしめる腕がきつくなる。だからあたしの体も軋んで、息が苦しくなる。それでも。
ハチルの右手はあたしの後頭部に添えられたまま。あたしは熱い液体が体中をめぐるのを感じる。齧りついて、縋り付いた彼の傷口から濡れた赤い血液が、あたしの口を、頬を染めて、顎を伝って降りていく。舌先をしびれさせる、ぬるついた毒。どくん、と弱虫の心臓が、またあたしのために血液を吐き出した。
だんだん乱れて不規則になっていく彼の呼吸を聞いていた。うるさいな、とまたあたしはおもう。彼が必死で息をする音。彼が息を呑む音。苦しくて、もがく音。
「忘れんなよ」
唇を放して、ハチルを見下ろした。傷口を押さえる青白い彼の左手が、だんだん赤く染まっていく。
「あたしが、お前に何をしたか」
何度その肌に歯を立てたか。血が流れ出すその瞬間が、どれほど痛いものなのか。そうやってどれだけお前を傷つけたか。どれだけ、お前に酷いことをしたか。大切なモノを全部取り上げて、それでも尚みっともなくお前に執着するあたしの姿を、忘れるな。
唇が触れれば、ハチルもあたしも息ができなくなる。
お互いにずっと、お互いのことだけを考える。
ハチルの心の中をずっと、あたしへの憎しみでいっぱいにして、
あたしの心の中をずっと、ハチルへの憎しみでいっぱいにする。
ずっとずっと二人っきりで、永遠にそれが続く。
心臓を穴だらけにされるのに、それでも、
人はみな、虫を飼い続ける。