数センチ先で俺を見上げる彼女の唇に噛み付いてやろうと思って、ふと、思いとどまった。
エマは俺が突然吐いてみせたため息にぎょっとしたように目を丸くして、それからゆるゆると不機嫌そうに俺から目をそらしてみせるから俺の心情はたまったもんじゃない、チクショウ、そんな顔されたら俺だって後悔しちまうだろうが。エマのために諦めたそのキスの代わりに、空中をふらふらとさまよった指先が彼女に、触れる。
フリッカ、としごく不安げな声を出す目の前の子どもに、ああやっぱりこいつはどこまでいっても子どもなんだなとゆるく絶望的な事実をついつい思ってしまう。年の差とか、体格差とか、そんなもんを真面目くさって考慮して、冷静にこいつとおつきあいできるような器用さを持ち合わせていない俺は、いつだって一方的に求めるばかりの獰猛なキスでこいつの唇を塞いでしまう。後悔、してはいるのだ、俺だって。
エマが泣きわめいて嫌いを叫ぶたびに、全く情けないことに、俺は死んでいるのだ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、ちょっとずつ。こんな子どもにいとも簡単に傷つけられちまうことに不甲斐なさを感じても、俺はエマのことを嫌いになったりはしねェ。俺はだから本当は、エマの側にいられるように最善を尽くさなければならなくて。
壁際に追い詰めた近すぎるその距離から名残惜しくも体を引っ剥がせば、エマのほうがますます不安そうな顔になってしまうのだからこいつは本当にかわいい、かわいくてしかたない。強引に詰め寄れば恐怖をその顔に浮かべるくせに、俺が珍しくも理性というヤツをフルに働かせて大人な対応をしてみせればきょとんとしたあげく不安そうにこちらを見つめるとは、まったく、俺はどうすりゃいい。
俺はどうしても諦めきれなくて、最後に一度だけ、というふうにさりげなく伸ばした手をエマの頬に滑らせるとそのまま立ち上がろうとした、これ以上エマを見つめてたら、大人ぶった俺の中の小さな理性なんてあっという間に粉々にされちまう。未だエマの側に張り付いていたい俺の体は異常なほど重く気怠く、徹底的なまでの抵抗の意を示していたが、それでも俺は何事もないかのように必至で装って、最後までエマの頬に触れたがっていた指先を引っ込める。だけど、だけどエマには俺の葛藤なんてわからねェようで、不安げな顔をますますくちゃっとさせて、なんだか今にも泣き出しそうな顔で、ようやくエマから離れられそうだった俺の体を恐ろしいことに無理矢理引き止めてみせた。
「フリッカ、」
やめろ、やめろよ。そんな顔するんじゃねェよ。そんな声で呼ぶんじゃねェよ。俺は爆発しちまいそうな自分の心臓の音を聞きながら、心の中でエマに懇願する。俺はお前みたいな子どもに、いちいちどうしようもねェほど心臓痛めてるんだぞ。エマは無邪気すぎる。ガキって生き物はいつだって、みんなそうだ。悪意のない無邪気な行動で人をこれほどまでに苦しめやがる。これが女の、たとえば大人の女のする男を追いつめようとするそれならば簡単に振りほどいてしまえるというのに、やっぱり俺にはエマの手を振りほどく事なんてそう簡単にはできなくて。
「…行かないでよ、どこ行くの」
分かっているのかいないのか、こういうときだけエマは子どもという武器を最大限に生かしやがるから、俺はその台詞を聞くだけでもう頭がおかしくなりそうになる。エマがしがみついたままの俺の右腕が、なんだか酷く重たい。ついに観念した俺は、立ち上がるのもやめてそのまま元の場所に、エマの前にどさりと座り込む。灰色のため息を隠そうともせず吐き出して、エマにしっかり掴まれたままの右手とは反対の左手で降参するように首の後ろに手をやった。
「…気が狂いそう」
「もともと狂ってるくせに」
正直にそう告げれば、エマは最初のむくれたような顔をしてうつむき加減にぼやいたけど、それでも俺の腕を放すことはなく。ぎゅ、と食い込むその小さな指が俺の気を狂わせていることに、彼女はきっと気付いていない。やっとの思いでエマから引きはがした体はこうもあっさり彼女に捕らえられてしまったから、お前のせいだよ、と呟く代わりに、俺は彼女にキスしていい?とぼやく。あァ、やっぱり俺は大人になんてなれそうにねェよ。
ゆっくりとエマの頬に手を寄せて、でも掴まれたままの右手をほどくのは惜しくて、空いた左手でその小さな頭を支えた。全神経を使ってていねいにていねいに落とした口づけは、ちゅ、と短い音を立てる。少しずつ、少しずつ、できるだけ緩慢な動作で。必至に唇を塞ぐわけでもなく、噛み付くような痛みを伴うものでもなく。それはいつもと違う、穏やかで、優しいキス。それでも俺は全身の力がゆるゆると抜けていくのを感じながら、静かに静かに目を閉じた。
いつだって俺は、エマの前じゃ狂っているのだ。乱暴な言葉を吐いて殴りかかりたくなりながら、それでもこうして、この子をていねいに愛せるかもしれないと心のどこかで思ってしまうのだから。