クッキーを食え

どうせ好きになるなら、もっとマシな人間を好きになりたかった。
ハチルさんはまともじゃない。それは分かりきってたハズだ。恋に恋する女子が憧れるようなステキな恋愛が得意な、えげつない優しさを持つ優れた王子様。ハチルさんはそういう人。だからまともじゃないって言ったでしょ。えげつない優しさっていうのがポイント。これは恋愛慣れしていない女の子にはかなり効く必殺技みたいなものだ。めろめろにされて、好きになる。だから私は彼を振った。

街中がピンク色にざわめき始める季節がやってきていた。
私は色めき立つ街にぺっと邪気をはいて、ありったけの憎悪の表情で通りを睨みつけ、苦いコーヒーを飲み込む。

「ピンクは邪悪な色だよ」

私はコーヒーのカップを握りつぶさん勢いで、ぽつりとそう呟いた。

「ねえ、不吉な感じがするでしょ。洗脳の色。自主性を奪う」
「確かに、言われてみればそういう気もするけど」
「例えばそのクッキーがピンク色だったらどう?食べる気しないでしょ」

鯉壱はわたしの言葉に適当に頷いて、クッキーを勝手にかじり続ける。
そう、いいの、別にいいのよ鯉壱、貴方はわたしに気にせずクッキーを食べてて。わたしはみっともない女だから隣でぶちぶち愚痴を言うけど、気にしなくていいからね。わかってるの、みっともないってことぐらい。だから、何も言わなくていいのよ。
心のなかでそう繰り返しているうちに、自分自身で嫌になる。わたしはどうしようもないやつ。わかってる。

通りの向こうを歩いて行くブロンドのきれいな女性を目で追いながら、わたしは自分の情けない性格を呪った。

彼女の口紅の色。向こう側の人の靴の色。ショーウィンドウの中のコートの色。
目につくのはピンク。ピンク。ピンク。
目玉をぐるりと回して溜息をつきながら隣を見れば、鯉壱は大人しくわたしの隣に立って、まだクッキーをかじっていた。

ピンク色は好きじゃない。
なんだか、あまったれたカンジがするんだよね。

あまったれた、と心のなかで繰り返して、ぼんやりと視線をピンク色の街の中へ漂わせる。
甘ったれることの何がこんなにもムカつくかなんて、考えたくなかったし考えなくてもわかってた。
大切な日々を大切に過ごした。幸せだったし楽しかった。それでもわたしは、もっとマシな人を好きになっていれば、こんなふうに、人の幸せを妬む女になってなかったはずなんだ。
ピンク嫌いになったのは、ハチルさんと幸せだったからだ。
そう思ったらまた泣いちゃいそうになったから、わたしは鯉壱が持ってたクッキーを一つ横から無理やり奪って食べた。
甘いのかと思ってたのに、全然甘くない紅茶の味がした。

「欲しいならまだたくさんあるよ」

鯉壱は自分もクッキーでいっぱいの口でのんびりそう言った。
クッキーはまだ口の中に残っていたけど、わたしはまたひとつ鯉壱からクッキーを貰った。

赤いレンガ畳のおしゃれな通りで、バスを待つ列に並んだ私たちは狭い空を見上げ、二人で一緒に季節の移ろいを呪う。鯉壱はクッキーをかじるのに忙しくてほとんど私の話を聞いてなかったけど、私はそれでもよかったし、全然平気だった。だって空はまだ水色だったし、私たち二人は確かに、その街で唯一甘ったれのピンクに飲み込まれない、勇敢なる戦士だったから。