ナースチェンカの浅はかな妄想

朝目が覚めたら、隣にいたはずの彼の姿は消えていた。
朦朧とした意識の中で、必死に彼の腕に絡めたはずの私の手を、あの男はいとも簡単に振り払っていってしまった。
いつものように、ぽっかり空いてしまった白いシーツを撫でる。
まるで最初からそこにいなかったみたいに、彼は本当にきれいに消える。
彼があまりに上手に私を愛すから、たまに彼も私のことが好きなんだと勘違いしてしまう時がある。
その度に私は強く強く彼を抱きしめて離したくないと思うけど、朝になると彼はいない
するりと消えて、いなくなっている。おばけみたいだ、といつもおもう。
彼って、ちゃんと存在しているんだろうか。ただ、私が幻覚を見ているだけなんじゃないのかな。
すごく優しくて、暖かくて、お互いの自分勝手を許しあう幻覚を、理不尽に愛し合う幻覚を、こうやって毎晩見る。
朝になって、1人になって、その空しさを知る。

彼が浮気性だと自分で言うから、今までに、いや、今も彼に泣かされちゃってる女の子はいっぱいいるのだろうなとおもっていたけど、それはもしかしたら私の自己満足かも知れない。だって彼が本当にいなくて、彼が私の幻覚だったら、泣かされてるのは私1人であるはずだから。
でもそれなら、幻覚のほうがいいや。
浮気でもいいからつきあって欲しいと、そういってつなぎ止めたのは私のほうだけど、
それでもやっぱり、私は彼に特別扱いされたいと、心の奥では思っている。ああ、ズルい女。

起き上がって、冷たい床に足をつける。そろそろカーペットを敷けよと、姿の見えない彼が言う。
私はめんどくさがりだから、この家にはほとんど家具がなかった。そもそもあんまり長く住むつもりじゃないのだ。彼の放浪癖と一緒。私も同じところに長くいられない質だった。
だからあるのは、備え付けの真っ白いベッドと、備え付けの冷蔵庫と、クローゼットに少しの服、キッチンに一人分の食器だけ。
それを彼はいつも笑っていた。食器も、何もかも、いつも一人分だったのは、彼がきた時にはいつも二人でシェアして、そうすることが心地良かったから、だ。彼のために二人分用意して、彼じゃない別の男に使わせるのがイヤだったのも、本音。

家にあるただひとつのコップと、家にあるただひとつの歯ブラシで、歯を磨く。
ぼさぼさの髪の毛を手で直しながら、彼は今頃どこにいるのだろうとぼんやり思う。
俺ならここにいるだろ、とベッドのほうから声がする。
うん、知ってる。知ってるわ。彼は私のものじゃないもの。
この部屋にあるものは、全部私専用なのに、彼だけが、私専用じゃなかった。

「泣くなよ、ナースチェンカ。どうした」

彼の声がすぐ側で、私の髪を撫でながらそうっと言う、
きえちゃえきえちゃえ、思ってても、彼は消えたりしない、
ただ丁寧に私の頭を撫でて、私が何か言うのを待っている、
いつも、いつも、そうやって、ひどく、優しくて、ずるい。

「わたし、じぶんが、きらい」

あなたを、あなたを憎む自分が嫌い。
都合良くあなたに愛されるだけの自分。それ以上になれない自分。でも、それを望むしかない自分。
それでいいからと、それでもいいからと、望んだのは私なのに、それをあなたのせいにしてしまう、じぶん。

「ナースチェンカ」

指が、触れる。見上げた先に、いつもと同じように、優しく微笑む彼がいる。
幻覚でもいい、浮気でもいい、なんだっていい、そばにいてよ。
特別じゃなくていい、その他大勢でいい、嘘だっていい、嫌われたっていい、そうでしょ、そうでしょう、
彼が、彼が側にいてくれれば、側にいて、くれれば私は幸せ、幸せ、しあわせな、はずだ、それなのに

口付けが落ちてきて、私は目を閉じた。落っこちる。彼の腕の中に。
首筋へ、鎖骨へ、肩へ、彼が小さなキスをくり返すたび、
力が抜けて、深く深く、どうしようもなく、落ちていく。
目の前は真っ暗なのに、とてもしあわせなきぶん。
震えているのに、めまいがするのに、とてもとても心地良いきぶん。
目を開けたら、そう、彼はいない。
分かっていたから私は、目を閉じたまま、目を閉じたままで、泣き続けた。